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「家族を支えるために勉強する」思いを共有…大城眞幸さん 「白黒はっきりさせたい性格」法曹界の道に…保久村登さん 久米島高校(2)<セピア色の春―高校人国記>


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現在の久米島高校の校舎

 久米島郷友連合会会長の大城眞幸(73)は久米島高校の19期。「登下校時も道を歩きながら、本を読んでいた」という先輩に感化され、勉強に励んだ頃を懐かしむ。琉球古典音楽の指導者、空手家の顔を持つ。

 1948年、仲里村(現久米島町)島尻で生まれた。篤農家の祖父は勉学の大切さを説き、大学を目指すように孫を激励した。64年、久米島高校に入学。早くから進学を意識した。

 「家族を支えるため働く。そのために勉強しよう」という思いを同級生と共有した。「久米島は高卒なら警察官、大卒は公務員か教師志望が多かった。本人の意向というよりも、家庭の事情だった」

大城眞幸氏

 大城が書いた短編小説「雄三の回想」が67年3月発行の校内新聞「久米島高校新聞」に載っている。目標を見失い、高校生活に張り合いをなくした主人公が立ち直る姿をつづった。

 「両親のこと、家の経済力のこと、社会的なこと、人道的なことなどを考慮して目標を決めた雄三の高校生活は次第に充実してきた」

 主人公「雄三」は大城であり、同級生たちの姿でもあった。

 3年生の時、生徒会副会長を務めた。生徒が校則変更を求めて授業をボイコットし、収拾に当たったことが思い出深い。

 「農業科のメンバーが『ヘアスタイルを自由にしたい』と訴え、校庭前の浜に出てストをした。僕は校長に呼ばれて『何とかしろ』とられた」

 後に学校は長髪を認める。舟木一夫の「高校三年生」などの歌がはやった時代。日本本土の文化が島にも届くようになっていた。

 在校時、堆肥作りのため全校生徒が山に繰り出して草を刈ったことが忘れられない思い出だ。

 67年、久米島高校を卒業し、琉球大学に入学。塾などで働いた後、県庁職員となった。西銘県政や大田県政の下、国際交流事業の推進に力を注いだ。

 大城の同期に元沖縄簡裁判事の保久村登(74)がいる。大城が語る堆肥作りの草刈りを保久村も懐かしむ。「ピクニックのようで楽しかった」

 48年、仲里村真謝の出身。パラオから引き揚げ、美崎小学校で代用教員をしていた父が早世し、一家は困窮した。親類に預けられ、一時は那覇で暮らした。島では畑仕事に追われ、勉強どころではなかった。「電気はなく夜はランプの明かりで勉強するしかなかったが、ランプをともす油もなかった」

保久村登氏

 貧困にあえぎ、成績が不振だった保久村を、中学の教師は「ヒンスー(貧しい)でも、働くためには勉強しなければ駄目だ」と諭した。

 64年、久米島高校に入学。その頃から法律に関心があった。「白黒をはっきりさせたいという自分の性格に法律は合っていると思った」と語る。

 65年の立法院選挙で騒ぎに巻き込まれる。候補者同士の対立に端を発した騒動への憤りを校内の弁論大会でぶつけたのだ。

 「政策論争をすべきだと訴え、弁論大会で優勝した。当然のことを言ったつもりだったが、抗議の声が上がった。ショックで勉強が手に付かなくなった」

 67年、鹿児島大学に入学した。「自分の人生を切り開くために大学に行くんだ。島を離れるのは当然のこと」と自分に言い聞かせた。それでも身分証明書を手に船に乗り、岸壁に立つ人々と別れのテープを交わした時、切なさがこみ上げた。

 大学卒業後の71年、琉球高等裁判所の書記官に採用され、復帰後は九州各地の地方裁判所で働いた。2006年からは簡易裁判所判事として宮崎、鹿児島、東京、沖縄の簡裁判事を務めた。その間も恒例の久米島高同窓生のソフトボール大会には駆け付けた。

 定年後、生まれ故郷に戻って4年。「島は随分変わった。田園風景がなくなったのは寂しいと感じる」と語る。現在は老人クラブの役員を務めるなど地域づくりに力を注いでいる。

(文中敬称略)

(編集委員・小那覇安剛)