目をそらさないでおこう 「見寄を求む」新聞<おきなわ巡考記>


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 1945年7月に現在のうるま市にあった米軍管轄下の民間人収容所で産声を上げた新聞「ウルマ新報」が、その年の10月から半年間、孤児院に収容されていた計997人の孤児について「親切な家庭」を頼りに引き取りを求める告知を掲載した。週刊で表裏2ページの限られた紙面の当時の新聞としては、延べ11回に及ぶ破格の「連載」扱いである。

 名前と年齢だけが並んだ記事に孤児たちの苦しみ、悲しみを想像して目をそらさず、思いを巡らせる。戦後77年の時間を刻んでも、子どもの豊かな未来を台無しにする結果を招いた日本軍の「戦略持久戦」の罪深さが消えることはない。

 「ウルマ新報」は後に「うるま新報」を経て現在の「琉球新報」となる。最初に孤児について触れたのは8月15日付紙面。「本部より皆様にお知らせ」の見出しで、こう呼びかける。「本部」とは米軍当局のことである。

 「当局としましては、従来通り孤児院で世話して貰ふよりも、子どもの順調なる発育の為に最も必要な温かい親心と(中略)親切な家庭に世話して貰ふ方が良策であると望んでいます」

 組織的戦闘が終息に向かい始めて以降、米軍は民間人収容所地区に14の孤児院を順次、設置した。だが、収容孤児の資料は米軍側にもほとんど残っていない。孤児院に収容されずにさまよい、戦後にかろうじて生をつないだ孤児もいたはずだが、その生き様、死に様の実態はつかみようがない。

 それでも、孤児院での子どもたちは、どんな環境下にあったのか、垣間見ることはできる。コザの孤児院で乳幼児の世話をした元ひめゆり学徒の津波古ヒサさん(2020年、93歳で死去)は、ひめゆり平和祈念資料館編「生き残ったひめゆり学徒たち」に次のように書き記している。

 「子どもたちは栄養失調で精気もなく泣いていました。(中略)翌朝、子どもたちを見てびっくり。きれいに拭いて寝かせたのに、髪の毛から顔、手足と体中が便にまみれているのです」

 「子どもたちは急激に高カロリーなミルクを飲んだため、下痢をしているようでした。(中略)そのうち、工夫して腹巻きをさせたり、衛生兵に協力してもらったりして、下痢も少なくなり、仕事も次第に楽しくなりました。しかし、毎朝、ひとりふたりと冷たくなり、亡くなっていくのを見るのはたまらなく辛いことでした」

 こうした状態を受けて、孤児の救済を呼びかける「見寄を求む」が掲載された。最初は、45年10月3日の石川市孤児院(施設の表記は掲載時。以下、同じ)から。以後、11月7日、田井等孤児院▽11月21日、コザ孤児院▽11月28日、コザ孤児院その2▽12月5日、コザ孤児院その3▽12月12日、宜野座市福山孤児院▽12月19日、宜野座孤児院▽12月26日、古知屋市孤児院、前原養老院に収容の孤児▽46年1月13日、久志孤児院、瀬嵩孤児院、前原市高江洲保護院に収容の孤児▽1月30日、石川市孤児院▽4月3日、田井等孤児院―と続く。

 各孤児院には連日、子どもを探し、安否の手掛かりを得ようとする大人が訪れた。子どもを引き取る手続きは簡略化されており、引き取った非血縁者が子どもを労働力として扱い、学校に行かせないケースもあった。しかし、頼る人や家族を失った孤児は不安や孤独を抱えたまま、厳しい環境に身を置いた。

 沖縄で唯一の地方紙だった「沖縄新報」(戦前の「琉球新報」など3紙が40年に1県1紙策で統合)は沖縄戦の戦闘激化で廃刊になっており、「ウルマ新報」は米軍の「正しい情報」を住民に知らせる情報戦略の一環として発刊された。作り手は日本の軍国主義は批判しても、米軍批判はしばらくタブーだった。しかし、未来を託す子どもの命が危機にさらされている以上、現実を直視する「見寄を求む」というキャンペーンだけは断固たる決意で取り組んだのであろう。

 「国体護持」「本土防衛」のために沖縄を捨て石にした日本軍は、幼い命の運命に想像を及ぼした形跡もない。「見寄を求む」は、住民を守らなかった軍隊が「子どもの夢も未来も断ち切って放置した」ことへの告発の記録でもある。

(藤原健、元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)