prime

県内初の女性議長「女性のやる気につながった」…高良ノブさん 豊かな自然で育まれた島の作物を発信…与座八重さん 久米島高校(3)<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
1960年代の久米島高校の正門(卒業アルバムより)

 仲里村(現久米島町)の議会議員を3期務めた高良ノブ(79)は久米島高校の13期。1998年、県内初の女性議会議長に就任した。「議長なんてとんでもないと思ったが、女性のやる気につながったのは良かった」と語る。

 42年、仲里村銭田で生まれた。9人きょうだいの7番目。兄1人を戦争で亡くした。父は黒砂糖のたる製造、精米、採石など、さまざまな事業に取り組んだ。「どれも成功せず、いつも貧しかった」と高良は語る。

 中学の頃は成績が良く、58年に久米島高校の普通科に進んだ。高収入を得るため大学進学を目指していたが、生活は苦しく、就職に進路を切り替えた。「お金のことでは、いい思い出はない」

高良 ノブ氏

 スポーツ万能で、活発な生徒だった。「飛んだり跳ねたりは誰にも負けなかった。バレーボールも上手だった」と語る。加えて正義感が強く、やんちゃな男生徒をたしなめた。

 「女生徒に嫌がらせをするような男生徒は絶対ぬがらさん(許さなかった)。男みたいな性格だった」

 周囲の女生徒はたくましい高良を慕った。

 卒業後、名護で3年ほど働き、帰郷。夫と建設業を興し、懸命に働いた。その間、婦人会や生活改善グループ、商工会婦人部で活動。地域住民に推され、90年に仲里村議選に立候補し、当選した。

 「右も左も分からないまま議会に出て行った。そこから勉強だった」

 議長当時の2002年、仲里、具志川両村の合併で久米島町が生まれた。「小さな島で二つの自治体が競争していた。このままでいいのかと思っていた」と話す。

 貧困からはい上がった高良は「自分の希望の多くをかなえることができた」と振り返る。最近は高校時代の仲間と旧交を温めることが楽しみだ。

与座 八重氏

 ローゼルを生かした商品開発を手掛ける「みなみ農園」代表の与座八重(74)は18期。高良のことを「ノブ姉さん」と呼ぶ。

 1947年、具志川村(現久米島町)具志川で生まれた。家は農家で牛、馬、豚などの家畜を飼っていた。与座にも仕事が回ってきた。

 「小学生の頃は学校から帰ると親戚の子のお世話。中学生の時は小川で洗濯し、畑も手伝った。井戸のない家庭は子どもたちが水くみをしていた」

 63年、久米島高校の家庭科に進んだ。「私はあっけらかんとしていたけれど、普通科に進んだ生徒は進学に一生懸命だった」。登校はバス、下校は友人とおしゃべりしながら歩いて帰った。

 高校入学の頃からテレビが普及し始め、舟木一夫や橋幸夫の歌を愛聴した。大人たちはテレビのある家に集まり、プロレスラー力道山の試合に熱中した。復帰前は島内に米軍基地があり、米兵の姿も見掛けた。「軍の車両と出くわす時は怖かった」と与座は語る。

 「面白い英語の先生がいた」と当時の授業風景を懐かしむ。時々、生徒を海岸に連れ出して、英会話を教えながらテンポの早い外国の民謡を歌った。楽しい思い出の一つだ。島にあったパイン工場でアルバイトをしたこともある。

 「家にお金を入れなければならない」と考え、卒業後は那覇にある紳士服店で働いた。3年ほどして帰郷。仲里村真謝出身で、刺し網漁を営む夫と民宿を始めた。「民宿では島の作物を使いたい」という思いから農園を始めた。

 17年前、本島南部の講習会でローゼルと出合い、島で栽培を始めた。ジャムやハーブティーを作り、空港や土産店で販売した。コロナ禍の逆風の中、豊かな自然の中で育まれた産物を発信しようと与座は奮闘を続けている。

 母校の行事には足を運ぶ。「園芸祭は楽しいですよ。よく行っています」と話す。後輩たちの活躍を与座は温かく見守る。

(文中敬称略)

(編集委員・小那覇安剛)