焼け野原、転がる死体…「沖縄戦に似た修羅場」 広島原爆投下、翌日の現地は 元写真家・嬉野さんが証言


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広島市の地図を広げ、77年前の8月7日に歩いたおおよその場所を示す嬉野京子さん=7月19日、那覇市内

 沖縄の復帰運動を撮り続けた元報道写真家の嬉野京子さん(81)=那覇市=は77年前、原爆が投下された翌日に広島市内に入り、「沖縄戦を凝縮したような修羅場」を体験した。当時4歳だった。原爆が投下された8月6日を前に、嬉野さんは当時の体験を語った。

 嬉野さんは1940年、東京都大田区生まれ。父は区内で自動車部品などを製造する工場を営んでいたが、45年4月の空襲で焼失した。父の元には工場を長野県長野市松代町で再開させるよう軍命が下り、準備が整うまで嬉野さんは兄2人、姉1人と佐賀県の祖母の元へ疎開していた。

 8月5日、嬉野さんは母やきょうだいと佐賀駅で、広島経由で東京へ向かう列車を待っていた。ところが空襲警報が発令され、列車は約2時間遅れで発車した。

 6日午前11時すぎ、広島市から約20キロ西にある廿日市(はつかいち)市で列車が止まった。「今朝、広島に新型爆弾(原爆)が投下され、この先進めない」。車掌の声が聞こえた。母やきょうだいと車中で一晩を過ごした。「定刻に出発しなかったために生かされた。でも、その後が大変だった」。

 翌7日、広島市へ向かう救援トラックに乗せてもらい、市内入り口で降ろされた。橋のたもとには馬がつながれ、閉じた目から目やにが流れ出ていた。「このお馬さん、どうしたの」。母はしつこく尋ねる嬉野さんをりつけ、先を急いだ。

 旧市街地へ進むに連れて焼け野原が広がり、死体が転がっていた。家族を見失ったら生きていけないと幼心に感じ取った。「痛いよ、待ってよ」。置いて行かれる恐怖と、足の裏にできたまめの痛さで泣き叫びながら必死に後を追った。「水をくれ」。母の足をつかむ瀕死(ひんし)の人々もいた。一家は生き延びるため必死だった。

 9、10日ごろ、東京にたどり着いた。どうやって戻ったかは覚えていない。広島をくぐり抜けた後、一家は父の工場を再開させるため、長野県の松代町へ移る予定だった。だがその日を待たずに日本は15日に終戦を迎えた。

 テレビでロシアに攻撃されるウクライナの映像が流れると、今も77年前の広島に引き戻される。「政府に無関心でいたら、えらいことになる。社会の変化に目を配らせて、おかしいことには声を上げないといけない」。嬉野さんは現代に警鐘を鳴らした。

(比嘉璃子)