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登川誠仁氏の弟子に、職場との二重生活も…上江洲由孝さん 公務員時代「島を背負っている」との思い…江洲順吉さん 久米島高校(4)<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
1960年代の久米島高校の朝礼風景(卒業アルバムより)

 県指定無形文化財「琉球歌劇」(地謡)保持者の上江洲由孝(81)は11期。1941年、具志川村(現久米島町)太田に生まれた。沖縄芝居や民謡がとにかく好きで、島に劇団が来ると必ず見に行った。だが、自宅では祖父が三線に触れるのを禁じ、それを破るとげんこつを食らった。「民謡を弾く人は三線ヒチャーグワァーと言われ嫌われていた」。めげずに上江洲はゴミ捨て場から拾ってきたギターを三線の調弦にして民謡を奏でた。

 具志川中から久米島高校に進学した上江洲はテニス部に所属しながら新聞配達をこなした。大学進学を考えていたが父が事業に失敗し、進学は諦めた。猛勉強の末、卒業後、島民の憧れだった公務員として沖縄刑務所に就職した。

上江洲 由孝氏

 島を離れ、念願の三線を手に入れ、生活は三線一色に。61年、人生の転機が訪れる。民謡の唄者・登川誠仁が刑務所を慰問で訪れた。登川が見せる早弾きに衝撃を受けた。数日後には沖縄市の登川宅を訪れ弟子入りを懇願。3度目の訪問で弟子入りを認められた。「何度も自宅に行くから、『しつこい』と怒られたよ」と懐かしむ。

 数カ月後には登川の前座として民謡ショーの舞台に上がるようになったが、職場では秘密にし、舞台がある日は仮病を使った。6年ほど二重生活が続いたある日、出演した結婚披露宴の媒酌人が刑務所所長だった。翌日、所長室に呼ばれ、「仕事を続けたいなら三線を辞めないさい」と言われたが、その場で「仕事を辞めます」と宣言、その日で退職願を出した。「とにかく三線のことしか頭になかった」。

 登川のような民謡歌手を目指していた上江洲だが、師の助言もあり地謡の道に進む。登川から指導を受けながら師の紹介で、阿波連本啓、宇根伸三郎から舞踊地謡を仕込まれ、大宜見小太郎からは芝居地謡を教わった。「全て誠小(せいぐゎー)(登川)先生の人徳」のなせる業だ。上江洲は6日、最後の舞台を踏んだ。これからは弟子の育成に情熱を注ぐ。

江洲 順吉氏

 「花の11期と言われている」と笑顔で語るのは元県土木建築部長の江洲順吉(82)だ。40年、仲里村(現久米島町)比嘉に生まれた。幼少期は栄養失調による虚弱体質で、「肉も食べられなかった」。両親は農家で、江洲は勉強よりも農作業の手伝いばかりしていた。9人きょうだいで家は貧しく、食べるのに精いっぱいだった。「今でも魚や鳥などを見ても食べられるかどうかを考えてしまう。そういう価値判断になっている」と語る。

 仲里中から久米島高校に入学した当時の身長は140センチ程度。病気がちだったこともあり部活には入らなかったが、友人とよく草野球やバスケットボールに興じた。学年が上がるにつれ体力がつき、身長もぐんぐん伸びた。「3年間の身長の伸び幅は同級生の中で一番だった」と笑う。

 勉強の方は「平々凡々」で、周りの友人が大学に進学する中、江洲は受験せず、卒業後は父の農業を手伝った。そんな折、土地改良調査のために島を訪れた琉球政府職員を手伝う期間限定の職を得た。初めての測量は思いの外楽しく、農作業が体力的に厳しいこともあり江洲は一念発起。母校の授業を傍聴するなど勉強を再開し、翌年には琉球大農政工学部林学科に入学した。大学卒業後の64年に琉球政府に就職した。

 その翌年、機構改革により農林土木、一般土木の技術部門が統合された土木設計課に配属された。江洲はそこで主に道路関係を担当する1係に回された。土木畑を歩む人生が始まった。公務員時代、頭には常に「久米島を背負っている」との思いがあった。公務員時代で印象深いのは「走らないモノレール」に「飛ばない新石垣空港」「埋まらないマリンタウン」と言われた県の三大事業の紆余(うよ)曲折だ。平和祈念公園の整備も携わった。「県議会でいろいろたたかれこともあるが、今ではどれもがいい思い出だ」。

(文中敬称略)

(吉田健一)