<未来に伝える沖縄戦>フィリピンの密林を逃げ惑う 食料奪う日本兵、弟2人失う 桃原隆盛さん


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 1941年、日本はハワイの真珠湾攻撃と同時にフィリピンのアメリカ施設を空襲します。フィリピン生まれの桃原隆盛さん(90)=宜野湾市=は、同地で戦争に巻き込まれました。戦争前、桃原さん一家はアバカ(マニラ麻)を栽培し、豊かに暮らしていました。しかし、45年4月に始まった地上戦に巻き込まれ、泥だらけのジャングルを逃げ惑い、弟を失いました。同年11月に日本へ引き揚げた後も、すぐには沖縄に戻れず鹿児島、大分県で1年過ごし、その間に末弟を亡くしました。当時12歳だった桃原さんの体験を普天間高校2年の大田優さん、3年の鶴田大士さん、新垣こはるさんが聞きました。

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戦争体験を語る桃原隆盛さん=7月12日、宜野湾市野嵩(喜瀬守昭撮影)

 《桃原さんは1932年にミンダナオ島に生まれました。両親のアバカ栽培が軌道に乗り、家族8人で豊かで平和な生活を送っていました》

 父・加那は宜野湾市野嵩出身。集落でも有数の資産家の四男でしたが、移民ブームに乗り、1925年、母・ツルを残してフィリピンに渡りました。母は5年後に父を追いかけます。移民当時は雇われの身でしたが、精進を重ねてバルカタン耕地に土地を購入します。30年に姉が、32年に私が生まれました。ワガン耕地に移り、土地を借りてアバカを栽培しました。両親ときょうだい6人、豊かな生活を送っていました。

 7歳になる年にカリナン日本人学校に入学しました。ダバオ地区で一番大きな学校で、英語の授業もあり、ミセス・ララというフィリピン人の先生が教えてくれました。

 《1941年12月8日、日本軍がフィリピンを攻撃。同月20日にダバオに進軍します》

 41年12月8日の朝、学級会が始まるのを待っていると、担任が青い顔で震えながら教室に飛び込んできました。「学校から出ないように」と言われましたが、何が起こっているのか分かりませんでした。ミセス・ララが青くなって運動場を横切り裏門から走り去る姿を今でも覚えています。昼過ぎには日本人の大人も学校に集められ、夕方、男性だけダバオに連れて行かれて収容されました。12月20日に日本軍がダバオに上陸して日本人を解放するまで収容生活は続きました。

 日本軍上陸後、フィリピン人は山に逃げ、街はゴーストタウンとなりました。父は軍属に、姉は原田部隊の縫工所に召集されました。日本軍はフィリピン人を敵国人扱いし、リーダー格の人を次々と殺していきました。ミセス・ララの旦那さんも殺されました。フィリピン人の日本人への敵がい心はどんどん強くなっていきました。日本がフィリピンを支配したのは3年間でしたが「スペインは宗教を、アメリカは教育を、日本は憎しみを持ってきた」と言われています。悲しいことです。こんなに恨まれて。

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 《1945年4月末、米軍がダバオに進攻します。民間人2万人と日本兵がうっそうとしたジャングルが広がるタモガンに逃げました》

 米軍上陸後、タモガンに避難命令が出ました。父も軍から逃げ帰り、その日のうちに食料をまとめ、水牛に引かせてタモガンに向かいました。2万人もの邦人が一斉に逃げたため、まるで銀座の道のような人だかりでしたよ。タモガンには日本軍が切り開いた山道がありました。

 タモガンの入り口に川があり、川向こうに渡ったときに米軍のグラマン機が飛んできて、爆弾を落とし機銃掃射をしました。父が足をやられて、肉が見えるほど大けがをしました。母が持っていたブタの脂と塩を傷口に押しつけて、妹の服の袖を破って足に巻いて止血しました。そして、父を水牛に乗せてジャングルを逃げ回りました。

 私が最初に見た死人は子どもをおんぶした女の人でした。母親は体がパンパンに膨れ、どちらもうじが口や鼻から出ていました。逃げる最中、泥に足を取られて動けなくなった日本兵に「あんちゃん、米持って行け。鉄かぶとも鉄砲も持っていけ」と呼びかけられました。米と、精米するときに使うために鉄かぶとだけもらいました。日本兵、民間人、食料を運搬する馬も水牛も死んでいました。地獄でしたよ。それを見ても何も感じませんでした。

 ジャングルでは毎日雨が降り、米軍は昼夜問わず泥だらけの道筋を攻撃してきました。逃げている最中、近くに落ちた大砲の砲弾の破片が弟の隆夫の手に当たり大けがをしました。隆夫は破傷風になり、2週間後に死にました。今でも隆夫の泣き声が耳から離れません。母が穴を掘って埋めて墓標に名前を書いて立てました。思い出すと涙が出てきます。でもあのときは泣きませんでした。

 隆夫が死んだのが8月。その頃からぴたっとアメリカの攻撃がやみました。私たちは終戦したことも知らず、そのまま奥地へ奥地へと逃げました。そのうち、召集された姉が私たちを探し当て、合流しました。

 ジャングルで鉄砲を担いだ日本兵5人が現れました。私たち家族は、ぬれないよう塩を木の枝に掛けていて、少し離れたところでは年を取った男の人が瓶に入れた米を棒でついていました。それを見た日本兵が「お前たち、まだ米を食っているか、塩をなめているか」と言って米と塩を奪い取りました。なけなしの米を取られた男の人は「返してください」と泣いて訴えたけど、兵隊たちは逃げていきました。組織を失った日本兵はギャングそのものでした。それからは、アメリカ兵も、反日感情をたぎらせているフィリピン人も、日本兵も怖い。会う度にぶるぶる震えました。

 《父が食料を探して歩いている時に、米兵と遭遇。桃原さん一家は保護されました。すでに9月下旬になっていました》

 アメリカ兵に連れられてダリアオン収容所に送られました。そこは日本兵と民間人を金網一つで分けていて、たくさんの日本兵がいました。それを見て「生きて虜囚の辱めを受けず」という教えは何だったのか、ジャングルを逃げ惑ったのは何だったのかと、小学校6年生の子どもながらに強く思いましたよ。

 収容所では満足な食事もなく、米軍の野戦食を1日1個、与えられました。収容所で孤児の面倒を見ていた姉は、食料を少し多くもらえたので、弟妹のために持って帰ってきてくれました。米兵が金網越しに投げたビスケットを拾ったら、大男に手をこじ開けられて奪われそうになったこともあります。みんな飢えていました。

※続きは8月10日付紙面をご覧ください。