1954年、ビキニ水爆、死の灰、父は浴びたのか 久高出身・瀬戸口さん、漁船被ばく、調査へ


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瀬戸口律子さん

 南城市知念・久高島出身で東京国際大客員教授の瀬戸口律子さん(76)=埼玉県=は父や叔父らが浴びたかもしれない「死の灰」の真相を調べようと、準備を進めている。漁師の父・西銘文栄(ぶんえい)さんらが乗船していた沖縄のマグロ漁船「銀嶺丸」は1954年3月1日、米国がビキニ環礁で水爆実験を行った際に近隣海域で操業していた。だが、米統治下の当時、沖縄の漁船の被害はうやむやにされた。実験から70年近くが経過する中、瀬戸口さんは「風化させたくない」との思いを募らせる。

 文栄さんは24年、当時の知念村久高で生まれた。県立水産学校を卒業後、学んだ漁業の知識を生かし漁業関係の会社に就職。44年4月に太平洋戦争で徴兵され、沖縄戦を生き延びた。戦後は知念の水産組合で勤務したり、近海マグロ漁船の船長を務めたりしていたが、51年5月に琉球水産に入社。遠洋マグロ漁船「銀嶺丸」の船長として、沖縄の遠洋マグロ漁の草分け的存在だった。

 それを示すように当時の琉球新報は「銀嶺丸南方へ初漁 とつてくるぞ!七万斤」(54年1月13日付朝刊3面)の見出しで紙面に掲載するなど、その動向を逐一伝えていた。瀬戸口さんは「船に女性は乗れなかったが、船長の娘だからということで乗ることができた。マグロもよく食べた」と当時を振り返る。

「沖縄漁船も被爆?」との見出しでビキニ水爆実験で、銀嶺丸などが被ばくした可能性を指摘する1988年3月1日付の琉球新報朝刊23面。写真の右端に西銘文栄さんがいる

 銀嶺丸は54年3月1日、米国が南太平洋のビキニ環礁で水爆実験を実施した際、周辺海域のニューギニア島周辺で操業していた。船は全面に灰をかぶった。船長の文栄さんは船の中にいたが、その弟の文太郎(ぶんたろう)さん、文光(ぶんこう)さんは甲板で作業していた。文太郎さんは裸で作業をしていて灰を浴びたが「何かも分からないので、気にしなかった」と昨年、本紙の取材に初めて証言した。

 文栄さんらが水爆実験の灰だと知ったのは沖縄に戻ってからだった。周辺海域では銀嶺丸と大鵬丸の2隻が沖縄から出港していて影響が懸念されたが、米軍は当時、魚の放射能検査で反応なしと発表した。2隻の被ばくが懸念されるようになったのは88年、「ビキニ被災調査委員会」が2隻の乗組員68人中11人ががんで死亡したことを発表してからだ。当時の紙面で文栄さんは「今思えば放射線を浴びたことは間違いない」と振り返っていた。

 瀬戸口さんは叔父の文太郎さんの証言を目の当たりにして、独自に記録を収集した。2012年に亡くなった文栄さんが生前、地域史に証言した際の記録もあった。「まだ真相は分からないが疑わしい事実があった。忘れずにこういうことがあったんだということを残してほしい」。瀬戸口さんは切に願った。
 (仲村良太)