広げようピンクリボンの輪 乳がん 闘病体験記


この記事を書いた人 外間 聡子
闘病中につづった日記を読みながら、当時を振り返るイクコさん=15日、那覇市内

イクコさん(仮名) 那覇市/主治医と対話で心安定

 那覇市に住むイクコさん(43)=仮名=は、7歳の長女と4歳の長男の子育てに追われる日々を送っている。学校への送迎や入浴、家事、一緒に遊んだりと、1日はあっという間に過ぎる。
 「時々、長女がママへって手紙を書いてくれるんですよ」。ほほ笑みながら語るイクコさんを病が襲ったのは2012年の年末。入浴中、右胸のしこりに気付いた。乳腺外科で検査を受け、翌年の1月中旬に「悪性 ステージ2A」と診断された。ぼうぜんとし涙も出なかった。
 ネットで「乳がん」を調べると、死への恐怖よりも、子どもたちの将来を心配し「死ねない」という気持ちがこみ上げてきた。医師からは「10年生存率85~90%」と告げられたが、悪い方向に考えた。大きな黒い影が迫ってくる感覚に襲われる。息苦しい。押しつぶされそうになるが、子育ては待ったなし。変わらぬ日常を送り、乗り切った。40代に入り、市役所から乳がん検診の通知が届いたが、関心はなく放置していた。「出産の時にいろんな検査を受けていたから大丈夫」という確信みたいなものが、打ち砕かれた。
 2週間後、詳しい検査結果が出て、治療方針が決まった。抗がん剤を投与してもらいその後、1週間入院して手術を受けた。術後は「放射線治療」で25回通院した。1年間は薬剤「ハーセプチン」の点滴を受けた。乳がんに関する情報を集め、疑問は全て主治医に聞いた。「食事会に行ってもいいですよ」「頑張らなくていい」。主治医の言葉にほっとした。治療に入ると心が落ち着いてきた。子どもたちの成長ぶりが心の支えにもなった。
 治療は約1年半に及び、現在は半年に1回、検査通院している。「再発や転移の不安は拭えない。でも、精いっぱい治療したという満足感はある」。うっすらと涙を浮かべ振り返る。
 闘病を経て、子育て観が変わった。「以前は『ママ聞いて』と呼び止められても、『忙しいから後で』と言うこともあったが、子どもたちの今を大切に、丁寧に接したいと思うようになった。穏やかな気持ちで育児ができている」。夫や両親らの支えにも感謝している。「病気にはいい面もある。普通でいられるありがたささを知ったから。子どもたちが家庭を持った後の子育ての応援が目標ですね」。

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サロンで患者会の仲間と話をする嘉数真紀子さん(右)=10月14日、浦添市城間

嘉数真紀子さん 浦添市/仲間が生きる力後押し

 主婦の嘉数真紀子さん(41)=浦添市=は31歳で甲状腺がんを患い、手術で甲状腺の一部と腫瘍を摘出した。術後、半年ごとに受けていた定期検診で、今度は左胸に腫瘍が見つかる。36歳の時だった。息子はまだ3歳にも満たなかった。「これからどうしたらいいんだろう」。2度目のがんにかかったことで、初めて死に対する恐怖が込み上げた。
 甲状腺からの転移ではないと診断を受けた。定期検診で早期に見つかったが、腫瘍は悪性度が高く半年で2・3センチの大きさになっていた。その事実が自分を弱気にさせた。「死んじゃうんじゃないか」と不安ばかりが膨らんでいった。
 乳がん患者の会「ぴんく・ぱんさぁ」を訪ねたのはその頃だ。心配を掛けまいと家族や友人にも話せなかった気持ちを打ち明けると「生きるために治療をするんだよ。乳がんになっても普通の生活はできるよ」。その言葉にようやく安心できた。
 翌月から腫瘍を小さくするための抗がん剤投与が始まった。髪の毛は徐々に抜け、手足がしびれるようになった。「水を飲んでいても甘い感じがして気持ち悪い」。食事を作っていても味が分からなくなった。
 副作用のつらさで弱気になると、患者会に足を運んだ。子育てや生活、治療面での不安と向き合ってきた人々から親身になって助言を得られたことで、不安が一つ一つ取り除かれていった。
 半年の抗がん剤投与で、腫瘍は4ミリになり、乳房温存手術で腫瘍を摘出した。幸いリンパ節への転移はなかった。術後、放射線治療で1カ月半通院した。
 現在は半年に1度検査を受けている。今でも再発の不安がないわけではない。だが「がんとどう付き合っていけばいいのか、皆に話す中で安心感を得られている。だからこの先も大丈夫」と話す。
 特に気を使うわけでもなく普通に接してくれた夫、息子の世話をしてくれた養母と姉、友人の支えにも随分と救われた。周囲の真心に触れ、患者会の後押しを受けて、少しずつ前に進んできた。だから今度は自分も患者会の一人として、だれかの力になれたらと考えている。そのときは、真っ先に「一人じゃないよ、共に乗り越えていこう」と伝えるつもりだ。