復帰直後の沖縄〈50年前きょうの1面〉9月3日「名護、甲子園へ」―琉球新報アーカイブから―


この記事を書いた人 Avatar photo 滝本 匠

 1972年5月15日に沖縄が日本に復帰してから今年で50年。27年間のアメリカ施政権下から脱して「祖国」の日本に戻るカウントダウンが進む中、本土との格差是正、自衛隊配備や米軍基地の取り扱い、ドル―円の通貨切り替え問題、初の知事選など、大きな歴史のうねりに翻弄される島の住民は山積する課題に直面する、そんな時代だった。復帰した後の沖縄の発展を展望しつつも、さまざまな制度変更にさらされる行政と政治。琉球新報の紙面もその歴史の一日一日を刻んでいった。

 

 日本「復帰」した1972年9月3日の琉球新報1面トップは、「一般会計予算案、県議会に送付/財源難、新味出せず/社会福祉教育関係、革新色を盛り込む/13件の特別会計予算案」との見出しで、難渋した予算編成の内容を紹介している。

 夏の甲子園に向けて「名護、甲子園へ/延長10回、大城(衛)がサヨナラ安打/全国高校野球南九州大会」との見出しで報じている。記事では「沖縄から実力で甲子園に出場するのは昭和37年の沖縄、同41年の興南についで6年ぶり3度目。名護はことし春のセンバツ大会についで連続出場」と紹介している。

 「米軍『大量破壊』の北爆/24時間で260回も」と、ベトナム戦での米B52戦略爆撃機による攻撃の様相を伝えている。

 

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 5月15日で復帰を迎えたが、沖縄を取り巻く状況は復帰して変わったこともあれば、変わっていないこともあった。琉球新報デジタルは、復帰を迎えた沖縄のその後の姿を琉球新報の紙面でどう記したか、引き続きお届けしていきます。