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那覇市内の写真展中止 抗議対処へ透明性必要 集会の自由と抗議の自由と 公的施設が保障する責務とは<山田健太のメディア時評>


この記事を書いた人 Avatar photo 滝本 匠
展示会中止を知らせるパレットグループのフェイスブック

 今月開かれる予定だった写真展が、開催に反対する団体等からの抗議を受け直前に中止となった。フォトジャーナリスト広河隆一氏が那覇市民ギャラリーで開催予定だった「私のウクライナ―惨禍の人々」であるが、「開催で傷つく人がたくさんいる」などの抗議の電話が十数件あったとされる。背景には、同氏にかかわる性加害について、問題が解決していないなかで活動を再開することへの批判がある。
 これらを受け那覇市民ギャラリー側が本人と協議し、中止が決定したと報じられている。同ギャラリーは「隣接する他の展示室や施設に著しい混乱をきたすことが予想されるため」と理由を示している。個別事情があるとはいえ、公的施設がいったん貸し出しを認めたイベントを、館の都合で中止することの是非を考えてみたい。

 謝罪強制の危険性

 今回の事案の論点の1つは、本人が自らの非を認めていないことを問題にしている点だ。あるいは、ネット上の投稿では、名前を見ただけで苦しむ人たちがいることから、公の場での活動は認められないという意見も少なくない。明確に過ちを認め謝罪をしない人物に会場を貸す行為は、性暴力を肯定する行為あるいは性差別を追認する行為にほかならず、許されないという理屈が示されている。
 日本では名誉毀損(きそん)等があった場合に、民事裁判では損害賠償のほかに原状復帰措置(元の状態に戻す方策の1つ)として、「謝罪広告」を裁判所が命じる場合がある。そうすると、編集長等が紙誌面で謝ることになるが、海外ではこうした謝罪の強要は良心の自由に反するとして認められていない。日本は相手方の内心に踏み込み謝らせること、あるいは本当は謝る気持ちが微塵(みじん)もなくても、とにかく一度公式に謝る姿勢を示すことで、過去を「水に流す」社会的習慣があるということだ。
 もちろん、個々人の感情として相手方を許す許さないはある。だが、謝罪が終わらないと表現の場を認めないことについて、公的機関がどこまで関与すべきだろうか。その判断を公権力に委ねることは、結果的に自由な(時に恣意(しい)的な)裁量権を公的機関に与えることになり、それは思想に基づく表現行為の事前規制につながりかねない。

 「判断しない」判断

 もう1つはギャラリーが中止になった理由として、混乱や迷惑を挙げている点だ。さらに言えば、館が一方的に中止したのではなく、両者の協議の結果であるとして、その判断根拠を曖昧なまま誤魔化(ごまか)そうとしているようにもみえる。
 確かに、開催をすれば抗議者は来るだろうし、会場内外で騒然となる可能性もある。その前後にも多くの苦情の電話やメールもあることで、施設関係者は日常業務に支障が出ることもあるだろう。今回の事例でいえば、指定管理者のSNSは炎上する可能性もあろう。しかし、こうしたことを理由とした開催取り消しは、「しない」というのが大原則だ。
 前述した行政あるいは公的機関の中立性とは、「判断をしない」ことである。それは思考停止ということではなく、外形的な同じ基準で事務を遂行するという意味である。前述した表現の不自由展の会場となった国立市は、「会期中は、混乱が生じることも予想されます。そのため、施設の管理者である公益財団法人くにたち文化・スポーツ振興財団は、国立市教育委員会及び立川警察署の協力をいただきながら、安全策を講じてきておりますが、引き続き、対応してまいります」としたうえで「地方自治法に定める公の施設であり、その利用について不当な差別的取り扱いをしてはならないとされています」との姿勢を明らかにした。
 さらに実施に当たって「市の考え方」を2度にわたってウエブサイトに掲載、その後はこの基準をスタンダードにして運用を行っている。そこでは最初、「アームズ・レングス・ルール(誰に対しても同じ腕の長さの距離を置く)」を適用し「不当な差別的取り扱いがあってはなりません」とし、「多様の考え方を持ったそれぞれの市民・団体が、法令に従い実施する様々なイベント・活動の場として、公の施設の利用は原則として保障されるべきものと考えます」と宣言した。
 さらに約1カ月後には、「催しに市は関与していないこと」「利用承認は法の定め及び解釈に基づき行ったもので、公の施設の利用を拒みうるのは特別な事情のある場合に限られ、反対するグループ等がこれを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こす恐れがあることを理由に利用を拒むことは、憲法21条の趣旨に反する」と明言している。

 経験を引き継ぐ

 那覇市民ギャラリーは那覇市の所有物で、市民文化部文化振興課が所管する。一方、実際の運営は指定管理者制度が導入されていて、現在はパレットグループが運営している。したがって、今回の一連の判断は形式上、管理者によるものともいえる。確かに無用なトラブル回避は必要である一方、こうした公共施設とりわけ表現活動の場を保証する立場である、まさに言論公共空間を担う施設管理者は、表現の自由の守り手としての意識を持つ必要がある。
 当然、法的な知識も、各地の実践例も最低限理解したうえで共有し、対処する社会的責任を有する。今回の対応は、抗議者の怒りを鎮(しず)めるには役に立ったであろうが、将来的には彼ら抗議をしたグループも含めた、市民社会全体の表現の自由を縮減させることにつながる危険性を、どこまで認識していたか改めて問われることになろう。
 こうした抗議する自由と集会の自由のバランスを考える法理として、「敵対的聴衆(敵意ある聴衆・悪意ある聴衆)の法理」が昔から存在する。集会の自由にかかわる法理論の一つで、公の施設で主催者が平穏に集会(展示会などのイベント)を開催しようとしているにもかかわらず、その集会の目的や主催者の思想・信条に反対する他の者が、これを実力で阻止・妨害しようとして争いを引き起こす恐れがあることを理由に、公の施設の利用を拒むことは憲法21条の趣旨に反するというものである。
 度重ねて司法の場でも確認されている判断基準であり、集会の中止決定は、公権力が集会の自由侵害に加担することに他ならない、という考え方による。施設側は可能な限り開催に向けて努力することが求められているということになるが、今回の場合、いわばその努力があったのかということだ。
 抗議者の「妨害」行為は許されない一方で、「抗議」は憲法で保障された正当な表現活動だ。だからこそ、その抗議にどう対応するか、公的施設はより透明性のある説得的な理由を示す必要がある。抗議に曖昧な対応をしたり、もう一方の表現者の自由を不用に制約してしまうことは、抗議の自由をきちんと保障する施設側の責任を放棄することでもあるわけだ。責務を果たすことが、表現の萎縮が続く現在の日本の社会をこれ以上後退させないため、表現の場の提供者に課されている使命だ。
 (専修大学教授・言論法)


 本連載の過去記事は本紙ウェブサイトや『愚かな風』『見張塔からずっと』(いずれも田畑書店)で読めます。