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「父を越えたい」教員の道へ…喜久里幸雄氏 パイン畑の造成に感動、県の三大事業に従事…糸数行雄氏 久米島高校⑥<セピア色の春ー高校人国記ー>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
1960年代の久米島高校の全景(卒業アルバムより)

 久米島町の初代教育長などを務めた喜久里幸雄(79)は13期。久米島高校の元教員で第19代校長でもある。1942年、9人きょうだいの長男として具志川村(現久米島町)に生まれた。地元の清水小の教頭を務めていた父幸吉の影響を受け、喜久里を含む上のきょうだい5人は教職の道に進む。喜久里は父について「生徒らの信望が厚く、私が教員になったのもそんな父を越えたいと思ったからかもしれない」と述懐する。

 戦後の厳しい時代、母は稲作などで家計を支えた。喜久里も5歳ごろから農作業を手伝うようになった。喜久里は母について「厳しい性格で、私はいつも父親にべったりだった」と振り返る。

 中学に上がると勉強に打ち込むようになる。当時、不良生徒からいじめられた。不良生徒は授業をよく妨害し、「『ちくしょー』と思った。自分はそういう人間にはならないと思い、勉強を頑張った」と語る。

喜久里幸雄氏

 58年、高校に普通科、農業科、家庭科の3科が設置され、喜久里は普通科に入学する。英語が好きで、父から買ってもらった英字辞書をいつも持ち歩いていた。2年に上がると英語クラブを立ち上げ、部長に就いた。毎週学校を訪れる米軍レーダー基地司令官との英会話が楽しみの一つで、喜久里の記憶では「名前は確か、ボブ・フレッチャーでテキサス州出身の中尉だった」。

 1年の浪人生活を経て、62年に琉球大学に入学。卒業後、補充教員として知念高校で半年間を過ごした後、数学の教員として母校に赴任する。その後、北谷高や開邦高などで教壇に立ち、普天間高校長を務めていた2002年、具志川村と仲里村の合併で誕生した久米島町の初代教育長に就任した。教職者として常に生徒に寄り添うことを心掛けていた。生徒指導や進路指導が長く、信念は「生徒を退学に追いやらないこと」。教育現場を離れて20年。今も久米島高校にエールを送る。

 喜久里の地元の後輩で県の新石垣空港建設対策室長などを歴任した糸数行雄(77)は15期。44年、8人きょうだいの長男として旧具志川村に生まれた。父は大工、母は農業で、週末になるとは農作業の手伝いに駆り出された。

 小学生の時に野球を始め、具志川中、久米島高校でも野球を続けた。62年夏の高校野球では、捕手そして主将として初の県大会出場を果たす。1回戦の相手は知念高校。10対0の六回コールドで大敗を喫した。「安谷屋というすご腕の投手にこてんぱんにやられた。世の中の広さを知ったね」と笑う。

糸数行雄氏

 糸数は当時の久米島高校の校風について「競争意識が乏しく、本島から来られた先生たちも指導で苦労したと思う」と振り返る。糸数が2年の時、赴任した新垣栄進教頭が勤労体験学習を県内でいち早く取り入れた。印象深いのはパイン畑の造成で、「400人余の生徒が横一線となって開墾した。人間の偉大さを痛感し感動したことを今でも覚えている」。

 勉強は「普通だった」と語るが、文武両道を地でいく学生生活だった。3年生の時に生徒会長を務め、卒業式では答辞を読んだ。国費制度を利用して宮崎大学に進学し、卒業後は「東京周辺で働きたい」との思いから千葉県庁に就職した。

 千葉で14年過ごすが、長男だったこともあり、81年に沖縄に戻り、沖縄県庁に割愛採用された。都市計画課係長を皮切りに宮古土木事務所長、南部土木事務所長など土木畑を歩む。県の三大事業と呼ばれた「走らないモノレール」に「飛ばない(新石垣)空港」「埋まらないマリンタウン」に携わったほか、那覇市久茂地の再開発などにも関わった。市町村や地権者との折衝や調整などさまざまな苦労があったが、「今ではいい思い出だ」と懐かしむ。島を離れて半世紀余りだが同級生との交流は盛んだ。「仲間、先生に恵まれた3年間だった」

(文中敬称略)

(吉田健一)

(久米島高校編は今回でおわり。次回から北部農林高校編です)