市民交流で継承の質高める 32軍壕と松代壕の記憶 <おきなわ巡考記>


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 首里城地下の第32軍司令部壕(32軍壕)と長野市の松代大本営地下壕(松代壕)について、それぞれ報道を続ける琉球新報と信濃毎日新聞は今、紙面上の連携を深めながら、互いの戦争の記憶を見つめている。これまで個別に戦跡として残され、語り継がれてきた「土地の記憶」としての戦争。そこに至った背景、事情を、国家や軍に限定された視点にとらわれることなく、犠牲を強いられた人々の目線で学び直せば、沖縄と長野に共通する課題が見えてくるのではないか。また、戦争を体験していないたちがどのように記憶を継承するか、その質を一層高めるためにどうするか…。新聞の紙面連携を機に、こうしたことを考える「沖縄―長野市民交流」で今月初め、20人を超える有志の皆さんと松代壕を訪れた。

 2カ所の壕は、住民に命をささげることを求めた「国体」の護持を作戦の中枢に据えた軍事拠点である。敗戦必至の状況に追い込まれても、「軍民共生共死」「悠久の大義に生きよ」と美化した死を強要した沖縄の日本軍。「国体」を守るために皇室の具体的移転先としてひそかに工事が進められていた長野の壕。この一連の動きを「負の遺産」として位置付け、実相をつかむ。今回の訪問団に講師として加わった沖縄戦研究者、川満彰さんは「戦争をしない、させないという覚悟が継承の根幹」と言い切った。

 川満さんは1960年、コザ(現・沖縄市)に生まれた。沖縄戦の体験者ではないが、この強い気持ちはどこから出てくるのか。

 川満さんの父親は、宮古島から家族ごと移住した旧満州(中国東北部)での逃避行から奇跡的に帰還した人だった。その体験を昨年、長い時間をかけて川満さんから聞いた。ライフワークにしている「沖縄戦と子ども」のことに、幼かった当時の父親の体験を思う気持ちがつながっているのかもしれない。

 私は、思う。非体験者であっても、戦争を自分に引きつけて考え、「土地の記憶」を時の経過と地域の中だけに閉じ込めることなく、「私だったらどうしたか/するか」と時空間を超えて大きく捉える想像力が欠かせない。その想像力を支えるのは、自らも含め住民一人一人の命を何より大切とする心であろう。

 戦前、満州への移民が全国で最も多かったのが長野県だ。ソ連軍の侵攻にもかかわらず、満州の日本軍はこの人たちを守らなかった。「集団自決」(強制集団死)も続発した。沖縄戦と同じ惨禍を、満州で長野出身の人々は受けていた。

 戦争は自然災害ではない。突然、降ってわいてくるものでもない。「外敵」を意識させて敵愾(てきがい)心を徐々に動員し、やがて命よりも大切な(と称する)ものを喧伝(けんでん)して引き起こされる国による人災である。こうした認識で史実に真摯(しんし)に向き合えば、非体験者も戦争の記憶の語り継ぎを担う列に連なることができるのではないか。

 訪問団には、南風原平和ガイドの会の井出佳代子会長も加わった。川満さんと同じ世代で神奈川県川崎市出身だが、10年前から沖縄に住み、講習を受けて平和ガイドになった。長野には沖縄に移る前に21年間暮らしていた縁がある。

 「二つの壕から発信すべきメッセージは『二度と戦争はしない』ということ。それをブレないで伝える(ガイドする)ことの重さを、さらに考えたい」。こう締めくくった井出さんの感想を「戦争を自分ごと」と捉える人の言葉として聞く。

 この市民交流の取材を続けた琉球新報の中村万里子記者は「私たちがどう歴史を見つめ、語り継いでいくかに未来はかかっている」と書き、信濃毎日新聞の竹越萌子記者は「沖縄側に学ぶべき点は多くあると感じた。訪問団を受け入れた経験をどう生かしていくのか、長野側の今後に注目したい」と応じた。

 二人の記者は共に30歳台。戦争体験者のいない時代に生きることになる。個別の「土地の記憶」を深掘りしつつ、さらに広げながら繰り返し学び直して伝え続ける。その責務と使命に、終わりはない。

(藤原健、元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)