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かつてのスター選手が戻ってきた。ハンドボール男子、琉球コラソンの田場裕也はアルコール依存症を克服して、47歳で再び日本リーグのコートに立っている。2007年に自らが主体となって設立したチームを「まずはプレーオフに連れて行きたい」と引っ張る。
命懸け
9月中旬、浦添市の体育館。練習前の円陣で、田場は「体はきついと思うけど、課題を確認しながらやっていこう」とチームメートに語りかけた。今年5月、13年ぶりに復帰したチームでの肩書は選手兼コーチ。身ぶり手ぶりでの指導も交えながら、20歳代ばかりの選手と汗を流す。
7月16日に日本リーグ復帰後の初得点をマークすると、18日には5得点し、8月11日には4得点を挙げた。東江正作監督(61)は「出せば計算ができる。命懸けでプレーする姿を見て、若い選手はもっと触発されてほしい」と、戦力だけでなくチームのかがみとしての役割を期待する。
栄光と挫折
日本代表のエースだった。興南高から強豪日体大へ。卒業後は名門の湧永製薬を経て、フランスのニームに移籍した。06年、欧州のような複数競技のプロチームを持つ総合型スポーツクラブをつくる夢を抱いて故郷、沖縄に戻った。07年にクラブチーム琉球コラソンを設立し、翌年から社長、ゼネラルマネジャー、監督、選手の一人4役をこなした。
皮肉にも、これが挫折への入り口となった。遠征費などに必要な資金集めに苦戦。スポンサー獲得のため、沖縄の風習である互助会合の「模合」で酒に付き合う日々が続く。その酒が、いつしか手放せなくなった。
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「朝起きて顔を洗うのも、電話をするのも酒がないとできなくなった」。夜は酒で睡眠薬を流し込んだ。09年末、運営を放り投げ、逃げるようにチームを去った。
その後は職を転々。飲食店で働くと商品の酒を飲んでしまった。どれも長続きせず、日雇いでしのいだ。東京に移り、依存症治療のために神奈川県内の病院に通ったが「帰りの電車で飲んでしまう」と酎ハイをあおるように飲んだ。
見かねた父に沖縄に呼び戻されたのは18年。2カ月半、入院した。幻覚などの禁断症状に苦しみながらも退院し「酒は一生飲まない」と誓った。
無限の情熱
競技への思いも戻った。「ここからもう一回スタート」と、毎朝1時間のランニング、夜は2~3時間の筋力トレーニングを始めた。19年12月に琉球コラソンのトライアウトを受験。不合格だったが、練習に顔を出してアドバイスしたり、スポンサー探しを手伝ったりするようになった。
そんな姿が、田場の後を受けて琉球コラソンを支えてきた水野裕矢・最高経営責任者(42)の目に留まった。「周囲やチームのことを考えられるようになった。この人が必要だと思った」と水野。「今のあなたは、15年前に僕が憧れたプロフェッショナルな姿に見える」。21年末、こう声をかけて加入を持ちかけると、田場は泣き崩れた。
トレーニングを再開した当初に立てた「5年で日本リーグ復帰」との目標は達成した。欧州で再びプレーする、日本代表の監督になる、世界の美術品などを買って沖縄県に寄付する…。夢は尽きない。アルコール依存症で苦しむ人を支える活動もしたい。「ちゃんと目標設定して計画を立てれば、ほとんどのことはできる」と力を込める。チーム名のコラソンは、スペイン語で「心」の意味。輝きを取り戻した田場の心には無限の情熱が宿る。
(柄谷)
(共同通信)