対馬丸、犠牲の子思いレース編む 生き残った自責の念背負い 引率教諭・糸数裕子さん死去 対馬丸記念館で追悼展示


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糸数裕子さんが編んだレースを手にする対馬丸記念館常務理事の外間邦子さん(右)と学芸員の堀切香鈴さん=4日、那覇市若狭の対馬丸記念館

 1944年8月22日夜に米軍に撃沈され、児童ら計1484人(判明分)が犠牲になった対馬丸事件。引率教諭で9月29日に亡くなった糸数裕子(みつこ)さん(享年97)は戦後、「自分だけ生き残ってしまった」と自責の念を背負って生きた。那覇市若狭の対馬丸記念館は3日から糸数さんが教え子を思って編んだレースを展示し、追悼している。

 44年当時、糸数さんは19歳。那覇国民学校教諭として、九州疎開する児童13人に付き添い、対馬丸に乗船した。米軍の攻撃を受け、沈みゆく船から海に投げ出されたが九死に一生を得た。しかし引率した子どもたちは全員亡くなった。

 熱心に疎開を勧めた立場だったため、戦後は「親から恨まれているだろう」と目立つ行動を避け、慰霊祭にも出席できなかった。三十三回忌を機に教え子との思い出や体験を語り始めたが、負い目は消えなかった。

 2014年に当時の天皇皇后両陛下が来県した際、糸数さんは「私には両陛下の前に出る資格がない」と慰霊祭への出席を固辞。代わりに手編みのレースを、教え子で対馬丸記念会の外間邦子常務理事(83)に託した。レースは祭壇などに敷かれ、皇后陛下にも一枚進呈された。

対馬丸事件で犠牲になった子どもたちについて語る糸数裕子さん=2014年6月

 「子どもたちを思って一針一針編んだのだと思う」。外間さんは糸数さんをしのび、児童らの遺影が並ぶ記念館1階展示室にレースを展示した。

 外間さんは「晩年、先生は『亡くなった子どもたちが毎晩枕元に現れる。もうすぐ会える』とお話ししていた。亡くなったお顔は穏やかで、最後まで生き抜いた後悔のない表情だった。展示したレースの写真をひつぎに入れて、子どもたちへのお土産にしてもらおうと思う」と話した。

 記念館学芸員の堀切香鈴さん(24)は「生存者に関わる展示物がほとんどない中で、糸数さんが残したレースは貴重な資料だ。生存者が深い苦しみを抱えて生きたことを伝えるために活用していく」と話した。
 (赤嶺玲子)