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「困難にチャレンジする教育、3年間が原点」…比嘉照夫さん 伊江島から進学、教員や同窓性との絆…与那城米子さん 北部農林高校(3)<セピア色の春>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
1957年ごろの校舎全景(「農魂―創立40周年記念誌」より)

 琉球大学名誉教授の比嘉照夫(81)は北部農林高校の13期。有用微生物群(EM)の技術開発で知られる。「北農の3年間は私の原点だ」と語る。

 1941年12月、今帰仁村兼次で生まれた。家畜の世話が上手で、大人たちに褒められた。今帰仁小学校5年生の時には「農業の指導者になる」という将来の目標を立てた。

 「先生が北海道やブラジルの大農場の話をしてくれた。自分も農業の技術を高めれば大農場に行けると思った」

比嘉 照夫氏

 畑仕事にいそしみ、家畜を育てる中で北部農林高校への進学を目指すようになる。「北農以外は行く気になれなかった」と振り返る。57年、志望校に入学した。

 戦後の食糧難を経験した比嘉は「農は国の本」という北部農林高の基本精神に共感した。「食糧難を打開しようという時代だった。北農は困難にチャレンジする教育だった」

 2代目校長、仲田豊順の熱っぽい指導を懐かしむ。「沖縄の未来や農業に対し、仲田先生は情熱的だった。北農で学んだ者は皆、仲田先生の薫陶を受けた」と語る。

 名物教師として北農同窓生の間で語り継がれる林業の園原咲也の姿も記憶に刻まれている。「園原先生は現場主義。木を調べるため沖縄中の山に何日も入った。植物を知るため葉っぱを食べた。自然を相手に情報を交換する術を先生から学んだ」

 1年生の時から級長を引き受け、クラスのまとめ役を担った。剣道部に所属し、大会で上位入賞を果たしたこともある。「北農の3年間、いろんなことに取り組んだ。楽しいというより、ずっと緊張していた」と比嘉。友人との映画鑑賞が息抜きとなった。

 教室での授業以上に実習で多くのことを学んだ。「北農は勉強というより実践が中心だった」と比嘉は語る。そこから行動力や困難を乗り越える精神力を身に付けた。「北農には感謝している」と比嘉は語る。

与那城 米子氏

 沖縄県婦人連合会の副会長を務めた与那城米子(82)は12期。比嘉と同様、実践を重んじる教育方針や校風が記憶に残る。

 1940年7月、伊江島で生まれた。45年、激しい地上戦で両親ときょうだい4人を亡くした。

 激戦の最中のことをかすかに覚えている。「一緒に逃げた兄に『水が欲しい』とねだったら、尿を容器に入れてきた。『こんなの飲めないよ』と言って泣いた」

 生き延びた与那城らきょうだい3人は遠縁の家に預けられ島内の小、中学校に通った。進学の意思はなかったが、「島で一生、イモ掘りを続けていいのか」と中学校の教師に問われ、高校進学を目指すことになった。「島を出たい」という思いもあった。

 56年に入学。島から出てきた新入生を、おっかない先輩たちが待っていた。応援歌の練習で歌う1年生に対し、「声が小さい」「ちゃんとしろ」と叱声(しっせい)が飛んだ。「態度が悪い1年生に3年生は厳しかった」と与那城は語る。

 思い出に残る教師がいた。家庭科の高尾野タマである。「優しくて上品な先生だった。高尾野先生にはとてもよくしてもらった」と懐かしむ。教頭の岸本本秀も忘れられない。「私を見る度に岸本先生は『伊江島、伊江島』と呼んでくれた」

 周囲に推され、生徒会役員にもなった。バスで国頭の村々を回った修学旅行も楽しい思い出だ。「今みたいに本土や海外に行くなんてことはなかった」と笑う。

 卒業後は民間企業で働き、退職後は婦人会活動を通じて沖縄の女性を取り巻く諸課題に向き合った。北部農林高同窓会の会計職も長く務めた。母校との縁は今も続いている。

 「年は離れていても、北農の同窓というだけで通じ合うものがある。どこでも先輩、後輩の意識が生まれる」

(敬称略)

(編集委員・小那覇安剛)


 

【沿革】

 1902年4月  甲種国頭郡各間切島組合立農学校として名護に創設
  11年10月 沖縄県立国頭農学校に昇格
  16年3月  嘉手納に移転、県立農学校に改称
  23年4月  林科を設置し、県立農林学校に改称
  45年   終戦により廃校
  46年1月  北部農林高等学校として名護市東江に創設
  49年2月  名護市宇茂佐に移転
  58年   定時制課程を新設
  89年   農業科を改編して熱帯農業科、園芸工学科新設
  90年   林業科を林業緑地科、生活科を生活科学科、食品製造科を食品科学科へ改編