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国葬のマスコミ報道 記録、解説が不十分 軍葬もどき、強制の検証を<山田健太のメディア時評>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
自民党本部の献花台

 大多数の無関心層に対し、岩盤支持層をはじめとする献花台に並び弔意を表する安倍晋三ファンと、安倍政治は許さないとしてきた国葬反対の抗議の声をあげるアンチ安倍――こうした構図の中で9月27日を迎えた。想定通りの社会の分断状況が垣間見えた1日だったが、本欄でも指摘してきたとおり、それは安倍政治のスタイルそのものでもあった。

 とりわけ第2次政権以降は、社会が割れた瞬間に官邸の勝ちが決まるのが通例で、反対勢力の声が強まるほどに自民党も含めた賛成側はより対抗心を燃やして推進力が増すという、分断ありきの手法が定着していた。その象徴は、弔辞のなかで名指しされた自民党の長年の懸案だった3法だった、安保法制、特定秘密保護法、共謀罪の強行採決である。

 この三つは表現の自由という観点からも、緊急事態法制・秘密保護法制・名誉毀損(きそん)法制(批判の自由の制約)といった表現規制の3本柱をそのまま実現する法制度でもあった。こうした言論の自由への脅威を作り続けた者の「偲ぶ会」を、新聞やテレビはどう伝えたかまとめておきたい。
 

残念だった紙面

 翌日の新聞紙面を一言でいえば「残念」だ。一つは想定通りの紙面作りだった点で、安倍元首相に対する態度、親か反かで紙面がきれいに割れた。読売は菅弔辞からとった一節「真のリーダーだった」を見出しに据えるとともに、「国葬 首相が主導」と現首相も含めた強いリーダーシップを評価する紙面が目を引いた。社説でも、「誰の内心の自由が侵されたというのか」「初めから『国葬反対』の前提に立って…遺族への配慮も欠いていよう」と国葬反対を厳しく批判する内容だった。同様に産経も1面解説で「安倍氏に静かな感謝を示した『サイレントマジョリティー』に応える意味でも、国葬を実施してよかった」と記し、「安倍晋三元首相 国葬」の紙面をぶち抜きの大見出しと、中央に据えた式典の大きな写真で弔意を示した。両紙とも抗議活動は社会面で小さな扱いにとどめたのも共通した。

 一方で、朝日「賛否の中 安倍氏国葬」、毎日「献花にデモ 賛否割れる中で」、東京「賛否交錯の中 安倍氏国葬」と〈賛否〉がキーワードの1面紙面作りであった。なお安倍政権時代に政府ととりわけ厳しい関係が続いた沖縄では、本紙が「反対世論顧みず 安倍氏国葬を挙行」、タイムスが「国葬 賛否二分し開催」だった。さらに「分断に責任 首相は行動を」(朝日1面)「分断深めた首相の独断」(同社説)、「首相は説明尽くしたか」(毎日1面)「合意なき追悼の重い教訓」(同社説)「分断の責任、岸田首相に」(東京1面)と、こぞって現首相の決定に厳しい批判を行うものであった。
 

伝える意味

 もちろん今回の国葬(儀)は特定の政治家の評価につながるという点で、統一協会との関係性も含め安倍政治をどう評価するかと直結している面が強く、こうした観点での紙面作りは当然でもある。国葬報道の意味として、実施したことの課題を背景とともに整理することは大切で、必要な要素であろう。ただし、記録という点でいえば、単に「ドキュメント」として弔辞を掲載したり、市井の賛否の声を拾うだけではなく、国葬そのものをきちんと報じることが必要だったのではないか。

 前回の首相国葬の吉田茂が「官葬」の趣きであったとするならば、それを前例とし、むしろより強調されたのは自衛隊の存在ではなかったのか。海外から見れば、「軍葬」と呼ぶに相応(ふさわ)しいかのような、出発点の私邸や経由地の防衛省での儀仗(ぎじょう)隊見送りに始まり、自衛隊様式に則(のっと)ったとされる天皇制あるいは軍事国家を想起させる楽曲が続く式典こそ、きちんと「解説」することが必要ではなかっただろうか。同じことは涙の弔辞ともてはやされた、菅前首相の弔辞における山縣有朋の扱いにも共通する。

 教育勅語や軍人勅諭の誕生と深いかかわりを持つ山縣は、言うまでもなく戦前の忠臣・軍国教育、軍事国家形成の立役者であり、民主制とは相いれぬ存在だ。沖縄においてこそ、そうした人物を崇(あが)める安倍や菅、その弔辞に拍手を送る会場や世間に対し、強い疑問を呈する必要があったのではないか。とりわけ弔辞は前日までに報道機関に配布されており、十分に検討の時間があったにもかかわらずである。
 

事実上の強制は

 本紙も含め、弔意の強制を取り上げた紙面は少なくなかった。しかし、事前のアンケートや弔旗の写真で満足してしまった面はなかったろうか。例えば黙祷(もくとう)の実施も字面だけでなく、起立して一斉に黙祷した職場と、座ったまま、庁内アナウンスを流したか流さなかったかなど、東京の中央官庁内でも対応はさまざまだった。首長あるいは政府がどんなに強制はしていないといっても、職場で上長が一斉起立の黙祷を促すなか、一人座ったままでいることがどこまで許されるかは極めて微妙な問題で、事実上の強制があったといってよい状況だ。それはあえていえば、戦時中の軍の命令をどう解釈するのかとも似ている。そうした事態をきちんと取材・フォローすることが報道機関の役割だろう。

 この面では産経新聞やフジテレビが職場にテレビを入れたり、官庁ごとの違いを報じたりしていたのが目についた。報道意図は逆かもしれないが、結果としてはその強制ぶりや、グラデーションが歴史の記録として残ることになった。先述した軍靴が響く儀仗隊の入場に始まる軍葬もどきの様子も、映像の力が大きい。そこでテレビがもう一言、楽曲の解説や戦前の軍との相違を示してくれれば、分断や安倍政治の功罪を伝える以上に、今回の国葬の政府の意図や元首相が目指したものがより明確に伝わったのではないかと惜しまれるのである。

 また、国家的イベント(セレモニー)である国葬を、きちんと視聴者に伝える意味でいえば、局カラーとはいえテレビ東京系列が放送時間ほぼゼロを選択したことは褒められることではなく、報道機関としての役割を放棄したものではなかったか。何の注釈もなく式典を流し続けたNHKも、全く逆の意味で報道の意味を感じさせない放送だった。フジテレビ系列は賛美色が強く、テレビ朝日系列は批判色が強いという意味で対局の放送姿勢であったが、前者は国葬式典の総合司会を局アナウンサーが引き受けるなか当然の選択であったのであろう。テレビ朝日は批判的とは言っても菅弔辞を肯定的に解説するなど、弔意を表すという基本線では同じであったともいえる。そのほかTBSは、出演者数もやたら多く番組進行もごった煮で番組にまとまりがなく、放送意図が視聴者に伝わらないままで、局としての迷いが出てしまった感がある。番組として最もまとまっていたのは、県内では該当局がないが日本テレビ系列の特番であったといえるだろう。

 国葬自体の「後始末」もまだしばらく続きそうだ。その折には国葬報道の検証もきちんとしておかないと、賛否や分断を言っただけでは、問題もその先にある解決策も見えてこない。

 (専修大学教授・言論法)
 (第2土曜掲載)


 本連載の過去記事は本紙ウェブサイトや『愚かな風』『見張塔からずっと』(いずれも田畑書店)で読めます。