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「島に戻る」と約束し伊江島から進学、村長時代にも「北農魂」…島袋清徳さん 「学んだこと還元する」胸に、感染症やウイルス研究に取り組む…根路銘国昭さん 北部農林高校(4)<セピア色の春>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
1950年代の園芸研修会での集合写真(卒業アルバムより)

 米統治下の1948年8月6日、伊江島の波止場で起こった米軍爆弾処理船(LCT)爆発事件に、北部農林高校9期の島袋清徳(84)は11歳のころ遭遇した。「沖縄戦で痛めつけられた村民は本島で収容生活を強いられた。島に戻って復興しようとした矢先に夢や希望もつぶされ、無念の涙を流した」

島袋 清徳氏

 37年に伊江村西江前で生まれた。伊江中の同級生は、戦争やLCT爆発事件などの影響で貧困家庭も多く、96人の同学年のうち、高校に進学したのは十数人にとどまった。島を支える農業の基軸になる農業指導者が嘱望されていた。「島に戻る」と家族に約束し、52年に北農に進学した。

 名護町(現名護市)宮里で同郷の友人と一室間借りし、通学した。自炊の食材は週末に伊江島から持ち帰った大量のイモ。定期船が本部町の渡久地港に着くと、麻袋に詰め込んだイモを車掌がバスに乗せるのを手伝ってくれた。「実習は楽しかったが、イモの弁当だったので恥ずかしくて、みんなで一緒に食べるのがきつかった」と振り返る。

 上下関係は厳しく、上級生から平手打ちされることもあった。卒業後、かつて厳しかった先輩に「あのときはごめんな」と謝罪された。沖縄短期大学を経て伊江村役場に就職したが、さまざまな場面で応援してくれる同窓生の絆を感じた。

 「農林魂を忘れるな」。在学中、教員たちから何度も諭された。「一生懸命、石にかじりついてでも諦めずに努力する、という教えだった。助役や村長としてさまざまな困難に直面したが『北農魂』のおかげで乗り越えることができた」と母校に感謝する。

根路銘 国昭氏

 1期下の10期には、世界保健機関(WHO)などで感染症の研究や対策に取り組んだウイルス研究の権威、根路銘国昭(83)がいる。

 根路銘は39年に本部町東で生まれた。同町にあった沖縄開洋高校(現・沖縄水産高校)に入学したが、同校移転に伴い北部農林高に転入する。「父親に『バス賃が安いところにしなさい』と言われた。最初はあまり勉強しなかったが、いろいろな夢が次から次へと学生生活を包み込んでくれた。北農を選んでいなかったら今の私はない」

 根路銘が「一つの欠点」を指摘するのは校内での暴力だ。上級生は転入生の根路銘に何かと言いがかりをつけ、顔が腫れ上がるほど暴力を振るうこともあった。

 他方、「一つの利点」として根路銘は「農業教育を社会と太い接点で結びつけていた点」を挙げる。作物を育て、市場に売る。「学生は社会に何かしらの責任を持つ。多才な人材教育の原点になったのではないか」

 大学進学のため実習の合間も独学で受験勉強に励んだが、経済的事情ですぐに進学できず、本部小学校で代用教員を務めた。宿直をしながら、放課後も児童に勉強を教えた。「教え子のうち4人は国費留学生になった。人生で一番充実していた」と語る。

 琉球大学を経て、細菌学研究のため北海道大学に。同大大学院の学費のため奨学金獲得を目指して徹夜で勉強した。首席で合格し、大学院の院生会長を務めていたが厚生労働省の強い勧誘で中退し、66年に国立予防衛生研究所に入所した。

 日本を蚊帳の外に置いていたWHOに掛け合い、地域支部を設置させた。93年にインフルエンザ・呼吸ウイルス協力センター長に任命され、世界のウイルス対策の政策決定に携わった。現在は名護市に根路銘生物資源研究所を構え、万能ワクチンの開発に取り組む。

 「『学んだことを還元する』ことを教えてくれた。社会に対して責任感を持つことの大切さを教えてくれた」と北農について語り「自分の道を追い求め、究めてほしい」と在校生に期待する。

(敬称略)

(松堂秀樹)


 

【沿革】

 1902年4月  甲種国頭郡各間切島組合立農学校として名護に創設
  11年10月 沖縄県立国頭農学校に昇格
  16年3月  嘉手納に移転、県立農学校に改称
  23年4月  林科を設置し、県立農林学校に改称
  45年   終戦により廃校
  46年1月  北部農林高等学校として名護市東江に創設
  49年2月  名護市宇茂佐に移転
  58年   定時制課程を新設
  89年   農業科を改編して熱帯農業科、園芸工学科新設
  90年   林業科を林業緑地科、生活科を生活科学科、食品製造科を食品科学科へ改編