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沖縄のビールづくりへの情熱、北農が原点…外間政吉さん 貧しい農家「助けたい」と尽力「北農は人生の道しるべ」…瀬良垣敬さん 北部農林高校(5)<セピア色の春>


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整地作業に精を出す北部農林高校の生徒、1952年2月(外間政吉さん提供)

 オリオンビールの元専務・工場長の外間政吉(89)は北部農林高校の5期。オリオンビールを創業期から支え、沖縄のビールづくりに情熱を注いできた。1933年10月、6人兄弟の末っ子として、本部町八重岳の麓にあった芭蕉敷で生まれ育った。

外間 政吉氏

 戦時中、自宅には平山隊が駐屯。ある日、父が家畜をつぶしていたところ、隊長の平山勝敏大尉から「国賊」と非難され、刀で斬られそうになった。「必死になって隊長にしがみついたから事なきを得た」。外間は戦争で、召集兵だった3人の兄を失っている。

 戦後、八重岳に米軍が駐屯した。外間は毎朝のように米兵に話しかけ、車で送ってもらった。「おかげで英語は誰にも負けなかった」と笑う。

 昔から体は小さく、「ナチブー」だったが、ウーマクーの友人に囲まれ、健やかに育った。先輩による制裁が多い高校時代も「けんかが強かった新里邦明と友人だったから無事だった」という。校長だった仲田豊順や教頭だった岸本本秀を強烈に覚えており、「2人から薫陶を受けた」。

 高校を卒業した外間は琉球大学に通いながら兄政憲が那覇市の開南に立ち上げた光文堂印刷所(現・光文堂コミュニケーションズ)でアルバイトを始めた。主に酒屋などにラベルを配達するのが仕事で繁盛する酒屋を見て醸造家になるのを夢見るようになる。そのころ出会ったのが、後にオリオンビールを創業する具志堅宗精だった。

 具志堅は当時、那覇でしょうゆやみそつくる具志堅味噌醤油合名会社(現・赤マルソウ)の社長で、ラベル配達を通じて仲良くなった。外間にとって具志堅は「懐の深いタンチャー」だった。

瀬良 垣敬氏

 醸造家を目指し一念発起した外間は琉球大を2年で辞め、東京農業大学に進学した。その後も具志堅との交流は続き、大学を卒業した1957年、具志堅からの誘いでオリオンビールに入社した。外間にとって北農はビールづくりの原点だった。

 外間が「5期生の中で一番のデキヤーだった」と語るのがJA沖縄中央会の常務理事などを歴任した瀬良垣敬(89)だ。33年8月、5人兄弟の三男として羽地村源河に生まれた。幼少の頃から活発で、自宅近くを流れる源河川で遊ぶのが何より好きだった。両親は農家で生活は楽ではなかった。

 友人の多くが名護高に進学する中、貧しい農家を「助けたい」との思いから49年、北部農林へ進学する。ちょうど校舎が名護市大東から宇茂佐に移った時期で、「コンセットで入学試験を受けたことが懐かしい思い出だ」と振り返る。移転直後の慌ただしさは今も鮮烈な記憶として残っている。「農地を整地する作業や桑畑の伐根作業など週に2日は農業実習、いや重労働だった」

 重労働に苦労しながらも勉強は常にトップクラスで1年の時は級長、3年生では生徒会長を務めた。さらに、県内の農業高校生を集めた沖縄農業クラブを立ち上げた。

 先輩からの制裁が当たり前の北農にあって瀬良垣は平穏に過ごせた。同郷の2年先輩に元琉球大名誉教授で沖縄の地域経済学の草分け的存在である故山里将晃がいたからだ。「小さい頃からお世話になった。温厚で優しい方だった」

 52年に高校を卒業し、山里の後を追うように琉球大農学科に進学。大学を卒業した56年に琉球農業協同組合連合会に就職し、当時県内に50ほどあった農協のまとめ役として、農協組織の強化や人材育成、農産物の産地形成に汗を流した。沖縄の本土復帰時には東京事務所の所長として、県内農協の販路拡大や全国農協中央会との調整などに奔走した。頭には常に「今やらなければ何も残らない」との思いがあった。瀬良垣にとって北農は「人生の道しるべを示してくれた場所」。卒業から70年余がたつが今でも感謝の心を忘れない。

(敬称略)

(吉田健一)


 

【沿革】

 1902年4月  甲種国頭郡各間切島組合立農学校として名護に創設
  11年10月 沖縄県立国頭農学校に昇格
  16年3月  嘉手納に移転、県立農学校に改称
  23年4月  林科を設置し、県立農林学校に改称
  45年   終戦により廃校
  46年1月  北部農林高等学校として名護市東江に創設
  49年2月  名護市宇茂佐に移転
  58年   定時制課程を新設
  89年   農業科を改編して熱帯農業科、園芸工学科新設
  90年   林業科を林業緑地科、生活科を生活科学科、食品製造科を食品科学科へ改編