2001年4月に名護市で初めての女性部長が誕生した。抜てきされたのは16期の宮里勝子(78)である。
宮里は1944年、久志村(現名護市)瀬嵩で生まれた。久志小、久志中を経て、60年に北部農林高校に入学した。久志村からは宜野座高校に進学する生徒も多かったが同校に通学するには辺野古のキャンプ・シュワブの前を通らなければならない。
ベトナム戦争時、たびたび米兵による事件も発生していた。「女が基地の前を通るのは危ない」と父親に言われ、北農への進学が決まった。
戦中生まれで、「戦争に勝つように」との願いから「勝子」と名付けられた。同じ理由から、同級生には同名の生徒が複数いた。平日は上下関係の厳しい寮で生活し、バケツでお湯を沸かして風呂に入った。週末はパイン工場で働くなどして家計を助けた。
時折友人と出かけた名護の街を満喫した。銭湯で体を癒やし、軽食を楽しんだ。「試験が終わってからのうずまきパンが一番の楽しみだった」
卒業後、久志村役場に入庁。64年は東京オリンピックの年で、辺野古区などから電気を買い、久志小学校の運動場で五輪開催の祝賀会を開いた。
初任給は21ドルで、軍雇用員の月給の半分以下だった。日本復帰を境に賃金も上がり、軍から転職してくる人たちも増えた。名護町との合併後も市職員としてまい進し、市民課、社会福祉課、納税課で課長職を歴任。01年に市民部長に起用され、不法投棄問題などで先頭に立って取り組んだ。「今の人たちに復帰前の苦労話をしても想像しにくいだろうね」と温和な表情を浮かべる。
宮里と同じ16期に、00年の九州沖縄サミット時の名護市婦人会長、大城美智子(78)がいる。
大城は1944年、大阪府で生まれた。名護町(現名護市)喜瀬出身の両親が仕事の関係で暮らしていた大阪を経て宮崎県で育った。59年に沖縄に戻り、瀬喜田中学校に転入した。バレーボール部に所属し、名護中に勝ったことが思い出だ。
当時は女子といえばおかっぱの髪型が一般的だったが、美容室で髪をすいて軽くしていた大城は「へーがさー」と言われからかわれた。
宮崎で通っていた中学校の近くに馬術学校があり憧れていた。「北農なら馬がいる。馬術を習えるかもしれない」と入学したが、畜産を学ぶための家畜で、希望はかなわなかった。
喜瀬の自宅からバスで学校に通った。理科の授業ではよく指名された。「県外出身のため、いろいろ試されている気がしていやだったが、考えてみればよく気にかけてくれていた」と振り返る。
バレーボール部に入部し、練習に打ち込んだ。夫の清利(79)は14期で部活を通して知り合った。63年に卒業後、沖縄ツーリストに入社し、4年ほど勤めた。名護十字路にあった支店で、県外に渡航する人たちのパスポートの申請書類を作成した。建物の2階には琉球政府の出入国管理部があり、手書きの書類を持ち込んで申請した。
66年に清利が家族で大東区に「大城旅館」を開業した。大城も家業に専念した。73年には「ホテル日南」も開業。75年に開催された沖縄海洋博覧会後も、ホテル日南は名護の老舗として40年ほど営業を続けた。
女性リーダーとして婦人会活動をけん引してきた。サミットの前年には各国の大使や公使を名護市民会館に招いて交流会を主宰。郷土料理でもてなした後、参加者全員でカチャーシーを踊って機運を高め、本番につなげた。「北農で人との関わりの大切さを学んだ。研究などに熱心に取り組んでいる在校生も学校生活を満喫してほしい」と期待した。
(敬称略)
(松堂秀樹)
【沿革】
1902年4月 甲種国頭郡各間切島組合立農学校として名護に創設
11年10月 沖縄県立国頭農学校に昇格
16年3月 嘉手納に移転、県立農学校に改称
23年4月 林科を設置し、県立農林学校に改称
45年 終戦により廃校
46年1月 北部農林高等学校として名護市東江に創設
49年2月 名護市宇茂佐に移転
58年 定時制課程を新設
89年 農業科を改編して熱帯農業科、園芸工学科新設
90年 林業科を林業緑地科、生活科を生活科学科、食品製造科を食品科学科へ改編