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農業実習をやらずに機械いじりに熱中…大城保三さん 畜産がしたくて入学、社会では別の道へ…比嘉善明さん 北部農林高校(7)<セピア色の春>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
名護市立東江中学校の敷地に建つ「北部農林高等学校発祥之地」

 名護城(なんぐすく)に隣接する市立東江中学校のグラウンド隅に「北部農林高等学校発祥之地」と刻まれた石碑がある。北部農林高は1946年1月、旧農林学校の生徒を集め、この地に創設された。背面には石碑建立の提唱者として、生コン製造業(株式会社キョウリツ)などの取締役会長を務める4期の大城保三(90)の名が記されている。

大城 保三氏

 32年、恩納村恩納の生まれ。畜産を営む農家で育った。「本当は石川高校に行きたかったが、父は『必ず農林に行きなさい』と命じた。跡継ぎにしたかったのだろう」と大城は語る。

 親の意思に従い、48年に北部農林高校に入学した。学校が現在地の名護市宇茂佐に移転したのが49年2月。大城は東江時代最後の入学生となった。

 「農林高校に行ったけれど、農業実習はあまりやらなかった」と振り返る。熱中したのは「機械いじり」。米軍基地が払い下げた機器を相手に技術を磨いた。それが学校の環境整備に役立った。

 「宇茂佐に移った頃、学校寮ではランプ生活を送っていた。これでは勉強できない。そこで『機械いじり』の技術を生かし、米軍からもらったモーターで発電した。みんな喜んでくれた」

 モーターを稼働するための燃料確保も大城の役目だった。吉元榮光初代校長ら教員もその活躍を褒めてくれた。「発電のメンテナンスで学校から功労賞をもらったよ」

 卒業後、機械技術を学びたいという思いから米軍のポストエンジニア(米陸軍工兵隊)に職を得た。その後、冷凍機器を扱う企業を手始めに生コン製造業やリゾート施設などさまざまな事業を手掛けてきた。

 大城は今、畑仕事を楽しんでいる。北部農林高を勧めた父の思いが受け継がれた。経営するホテルやドライブインにパッションフルーツやマンゴー、野菜類を納めている。「趣味でやっている。歩ける間はやるんじゃないかな」

比嘉 善明氏

 沖縄トヨタ自動車元専務の比嘉善明(85)は8期。「本当は畜産がしたくて北部農林高校に入った」と明かす。社会に出て、畜産とは全く別の道を歩んだ。

 1936年、名護市喜瀬の農家に生まれた。豚や鳥などの家畜に囲まれた幼少期を送った。52年、北部農林高校に入学した。

 「同じ学年でも2、3歳年上の生徒がいた。体と態度が大きいので不思議に思っていた」と語る。年上の生徒の多くは南洋群島や日本本土からの引き揚げ者だった。

 貧しい食生活を送った。「朝から晩までひもじい思いをした。寮生活でも、出るのはおかゆやそうめん汁くらいだった」と比嘉。空腹を我慢しながら、週に1度は為又にあった農場に通った。畜産を学びたかったが「畜産の授業はそれほど充実していなかった」と振り返る。

 楽しい思い出の一つが地域対抗の運動会だった。クラブ活動は柔道部、バスケット部、陸上部に所属した。

 学内では上級生による制裁が横行していた。「先輩にたたかれても『ありがとうございました』とお礼をした」という。3年になった時、「こういうことはやめよう」という声が同級生から上がり、制裁の横行は止まった。

 名古屋の大学で学んだ後、民間放送局の子会社などで働いた。67年に帰郷し、沖縄トヨタ自動車に入社。自動車販売の世界で力を発揮した。畜産業に就くことはなかったが、後輩のいとこが沖縄の畜産業に功績を残した。北部農林高教諭として沖縄在来豚アグーの復活に尽くした11期の大田朝憲である。

 比嘉は現在、北谷町の老人・美浜区願寿(がんじゅう)クラブの会長として地域活動に励む毎日を送っている。「周囲に頼まれ、長いことやっているよ」とにこやかに話す。

(敬称略)

(編集委員・小那覇安剛)


 

【沿革】

 1902年4月  甲種国頭郡各間切島組合立農学校として名護に創設
  11年10月 沖縄県立国頭農学校に昇格
  16年3月  嘉手納に移転、県立農学校に改称
  23年4月  林科を設置し、県立農林学校に改称
  45年   終戦により廃校
  46年1月  北部農林高等学校として名護市東江に創設
  49年2月  名護市宇茂佐に移転
  58年   定時制課程を新設
  89年   農業科を改編して熱帯農業科、園芸工学科新設
  90年   林業科を林業緑地科、生活科を生活科学科、食品製造科を食品科学科へ改編