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今帰仁村長として「農業と観光」の基盤づくりに奔走…與那嶺幸人さん 栄養学を学び大宜味村で「笑味の店」立ち上げ…金城笑子さん 北部農林高校(8)<セピア色の春>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
北部農林高校で育てた食材などを活用して調理や栄養について学んだ「食物クラブ」の生徒たち=1966年ごろ、北部農林高校(卒業アルバムより)

 2008年1月19日、ライトアップされた桜が今帰仁城跡を背景に浮かび上がった。名護さくら祭り(名護市)やもとぶ八重岳桜まつり(本部町)と並ぶ「今帰仁グスク桜まつり」。今帰仁村長として実行委員長を務めたのは、19期の與那嶺幸人(75)である。

與那嶺 幸人氏

 與那嶺は1947年、今帰仁村崎山で生まれた。今帰仁中時代に家業の農業を継ぐことを決めていた。63年に北部農林高校に進学した。

 トラック型の定期バスに乗って名護町(現名護市)宇茂佐の北農に通った。上下関係は厳しく「先輩は怖かった」と振り返る。崎山区は当時、米軍向けの野菜を生産する指定地域で住民は農業で生計を立てていた。與那嶺は週末は実家の畑作業を手伝った。静岡県での研修でも積極的に農業を学び、スイカ農家になることを夢見た。

 卒業後、農業に取り組んだが27歳で転機が訪れた。村農業委員に起用された。農地法に基づく売買・貸借の許可、農地転用案件への意見具申、遊休農地の調査・指導などを行った。農業政策にさらに携わろうと、31歳で村議会議員選挙に挑戦し、政治の道に入った。

 2004年、2回目の挑戦で今帰仁村長に選出された。「所得を上げるには農業だけでは難しい」と新規事業を仕掛けた。「今帰仁グスク桜まつり」「古宇利島マジックアワーRUNin今帰仁村」など、3期の任期中に県内外から注目を集めるイベントを手掛けるなど「農業と観光」の基盤づくりに奔走した。「『農魂』でつながった同窓生が応援してくれた。絆はどこよりも強い」と話す。

金城 笑子氏

 1期下の20期には、大宜味村で採れた野菜をメインに「長寿食」を提供している村大兼久の「笑味の店」の代表、金城笑子(74)がいる。

 金城は1948年、7人きょうだいの長女として本部町備瀬で生まれた。3歳で名護町に転居。鮮魚店を営む両親に代わって家事を担った。東江小高学年のころには夕食を作るようになった。鮮魚店で売れ残った魚を焼いたり、汁物にしたりするなどして工夫して食卓に並べた。きょうだいの世話でほとんど外で遊べなかった。友達が家に遊びに来たときに雑炊を振る舞うと喜ばれた。

 名護中から64年に北農に進学。初めて学ぶ栄養学など専門科目が楽しかった。食物クラブに所属し、「農業」「食」「健康」の三つが自分の中で明確につながり「ときめきを感じた」。

 栄養学を突き詰めて学ぼうと卒業後、67年に上京して栄養女子短期大学に入学。昼は病院で働き、夜はキャンパスで学ぶ多忙な毎日を過ごした。「勉強したことを実践に生かすことの大切さを学んだ」と振り返る。

 24歳で沖縄に戻り、73年に東小中学校(東村)に学校栄養職員として採用された。栄養バランスの取れた献立を考え、「おいしい」と笑顔で話す子どもたちに接する仕事にやりがいを感じた。77年に結婚を機に大宜味村に移り、職場も大宜味村給食センターに変わった。退職後90年に「笑味の店」を立ち上げた。

 長寿の里として知られる大宜味村には、地域のお年寄りたちが畑や家の庭でゴーヤーやウコンなどを育てて体調に合わせて食べたり、分け合ったりしていた。「畑で汗をかき、土に触れることで気持ちが癒やされる。畑の中で心と体のバランスが調和し、長寿につながっていることを実感した」

 99年に大宜味村のシークヮーサー加工品開発による地域おこしが評価され、食アメニティーコンテスト国土庁長官賞を受賞。2012年に地域づくり総務大臣表彰優秀賞を受賞するなど高い評価を受けている。金城は「生きる原点は食べること。食と農が基本になって健康は作られる」と来客に沖縄料理を振る舞っている。

(敬称略)

(松堂秀樹)


 

【沿革】

 1902年4月  甲種国頭郡各間切島組合立農学校として名護に創設
  11年10月 沖縄県立国頭農学校に昇格
  16年3月  嘉手納に移転、県立農学校に改称
  23年4月  林科を設置し、県立農林学校に改称
  45年   終戦により廃校
  46年1月  北部農林高等学校として名護市東江に創設
  49年2月  名護市宇茂佐に移転
  58年   定時制課程を新設
  89年   農業科を改編して熱帯農業科、園芸工学科新設
  90年   林業科を林業緑地科、生活科を生活科学科、食品製造科を食品科学科へ改編