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「人生で大切なこと北農で学んだ」応援団長として活動…屋比久稔さん 実家の建て替えのため上京、沖縄に戻り政治の世界に…大城秀樹さん 北部農林高校(9)<セピア色の春>


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北部農林高校の応援団長を務めた屋比久稔さん(左)ら=1966年ごろ(卒業アルバムより)

 元名護市議会議長で県羽地振興協同組合「羽地の駅」の代表理事を務める屋比久稔(74)は20期である。「『北農魂』をたたき込まれた」と母校を懐かしむ。

屋比久 稔氏

 1948年、羽地村(現名護市)振慶名で生まれた。63年、羽地中学校から北部農林高校へ進む。名護高校機械科への進学を志していたが、「振慶名は農業だ」と地元の先輩の進言を受け、北部農林高に進んだ。

 はだしで過ごすことが多かったが、入学前に久志村(現名護市)の米軍キャンプ・シュワブに向かい、まだ使える軍靴を拾った。名護町(現名護市)宮里行きのバスに乗って、意気揚々と靴を履いて門をくぐった。

 「先輩、後輩の上下関係は厳しかった。一生懸命努力し、道理にかなわないことは見過ごさない。人生で大切なことは北農で学んだ」と話す屋比久は、3年生の頃の“事件”を回想する。

 校内で栽培していたパイナップルが他校の生徒たちによって盗まれた。「真心込めて育てたパインは、自分たちの子どもと同じだ。絶対に許せなかった」。農業助手が運転するトラックの荷台に数十人の仲間とツルハシなど農具を持って乗り込んだ。制裁に向かおうとしたところ、正門で友利恵盛校長が両手を広げて静止した。「自分を殺してから行け」。

 友利の説得に応じ、他校の責任者と生徒が謝罪する形で事態は収拾した。「校長が止めてくれなかったら大事件に発展していただろう」。屋比久は恩師に感謝する。

 応援団長、風紀委員長として北農を統率した指導力は社会でも生かされた。畜産業界で価格交渉などを担い、94年に名護市議会議員選挙に初当選。辺野古新基地建設問題などで揺れる激動の時代を走り抜いた。

大城 秀樹氏

 屋比久の後任として名護市議会議長に就任した大城秀樹(72)は23期である。2018~22年まで議長を務めた大城は1967年に北部農林高校に入学した。

 50年に名護市山入端で生まれた。安和小学校、屋部中学校を卒業後、名護高校機械科を受験したが不合格に。一浪して北部農林高校の製造科に進んだ。父親が合格祝いで名護市大東のヒンプンガジュマルの近くにあった「宮田自転車」で自転車を45ドルで買ってくれた。新品の自転車でわくわくしながら学校に通った。

 陸上クラブに所属し、名護市陸上競技場に走って練習に通った。勉強も怠ることのなかった学校生活を評価され、3年の担任が「大学に行かないか」と進学を勧めてきたが、出稼ぎのため上京することを決めた。

 明確な目標があった。台風で赤瓦の実家ががたついていた。「自分がなんとかしないと」との思いで運送業に身を投じ5年間必死で働いた。500万円をため、24歳で沖縄に戻った。一部借金し、家を建て替えた。「おやじが喜んでくれた」と述懐する。

 タクシー乗務員を経て、名護自動車学校に指導員として採用された。学科試験の採点を任されるなど職場での地位を築き22年が過ぎた98年、創価学会の幹部だった先輩から「議員選挙に出ないか」と声がかかった。「自分は自動車学校で生涯を終えるつもりです」と固辞したが、「市民の代表に」との強い後押しを受け立候補した。街頭演説には自動車学校の教え子たちが駆け付けてくれた。

 以来、今年9月の市議選まで7期連続で議席を守る。専門である交通安全のためガードレール設置などを実現してきたほか、社会福祉政策の拡充に奔走してきた。「住みよいまちづくりに働く」と決意を新たにする。

(敬称略)

(松堂秀樹)


 

【沿革】

 1902年4月  甲種国頭郡各間切島組合立農学校として名護に創設
  11年10月 沖縄県立国頭農学校に昇格
  16年3月  嘉手納に移転、県立農学校に改称
  23年4月  林科を設置し、県立農林学校に改称
  45年   終戦により廃校
  46年1月  北部農林高等学校として名護市東江に創設
  49年2月  名護市宇茂佐に移転
  58年   定時制課程を新設
  89年   農業科を改編して熱帯農業科、園芸工学科新設
  90年   林業科を林業緑地科、生活科を生活科学科、食品製造科を食品科学科へ改編