prime

忘れられない沖縄サミット、名護での「旗振り役」に…具志堅強志さん 教員が天職、人生の原点の母校の教壇にも…新里邦明さん 北部農林高校(10)<セピア色の春>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
北部農林高校15期生(林業科)の生徒ら。3列目左から7人目が具志堅強志さん、1列目左から6人目が新里邦明さん。その右隣がクラス担任の照屋照和さん=1961年3月(具志堅さん提供)

 県幹部や名護市幹部を歴任し、2000年の沖縄サミットを成功に導いた具志堅強志(78)は15期。いとこに元ボクシング世界チャンピオンの具志堅用高がおり「具志堅一族で一番有名なのが用高だ」と笑う。

具志堅 強志氏

 1944年、6人きょうだいの長男として名護市港に生まれた。父・用義は戦前、召集兵として満州にわたり、終戦後はシベリアに抑留された。具志堅が父との対面を果たしたのは5歳の時だった。

 幼い頃から本が好きで、琉米文化会館で歴史小説を読みあさった。名護の公設市場で鮮魚店を営んでいた父の影響もあり、59年、北部農林高校林業科に進学する。具志堅は「父から常に身になるものを学べと言われてきた」と述懐する。

 高校1年の時、3年に定時制1期生で叔父の具志堅次郎がいた。次郎は当時、陸上の5000メートルと1500メートルの県記録を持っており「地元の屋部村では知らぬ人がいなかった」ほどの有名人だった。

 高卒での就職を考えていた具志堅は入学してすぐに担任から大学進学を勧められた。「勉強すればいけると言われ、その気になった」。担任の一言は具志堅を勉強に向かわせた。具志堅の目から見た北農は「皆が生き生きしていた」。

 琉球大学に進学し、66年に琉球政府に採用され、72年の復帰記念植樹祭や93年の全国植樹祭、96年の県民投票など県の一大プロジェクトに携わった。公務員生活で特に忘れられないのが沖縄サミットだ。サミットの前年、県畜産振興基金公社の専務理事だった具志堅の下を中学時代の友人で名護市長の岸本建男が訪ねた。「旗振り役をやってくれないか」。最初は断った具志堅だが、何度も公社を訪れる岸本の熱意に根負けし、名護サミット推進市民会議の2代目事務局長に就任した。具志堅は「市民一人一人が頑張ったからサミットは成功した」と語った。

新里 邦明氏

 具志堅の高校時代の恩師に5期生の新里邦明(89)がいる。生まれは東村有銘だが、両親が小中学校の教員だったため、屋我地や羽地など北部地域を転々とした。7人きょうだいの長男に生まれ、父から厳しいしつけを受けて育った。学校の成績が悪いと「自宅にあった天皇陛下、皇太子の御真影の前に座らされて『皇太子さまと同年代なのに何をやっているか』と怒鳴られた」。

 生活は比較的裕福で、農家の友人が弁当にイモを持ってくる中、新里の弁当には米が入っていたという。しかし生活は戦争で一変する。新里は「終戦直後の教員の生活は惨めで、食べるにも苦労した。教員だけにはなりたくないと思ったから北部農林に進学した」と振り返る。

 49年、北部農林に進学し、学寮に入る。先輩からの暴力が多い時代だったが、新里は3年間、先輩から殴られたことがなく「先輩からかわいがられた」。

 高校を卒業後、「同級生に負けたくない」との動機で琉球大学に進学する。大学卒業後には現在の宜野湾にあった米陸軍病院の研究室に就職。教員の初任給が4400円の時代に6千円をもらっていたが、軍人からの嫌がらせに嫌気が差し、4カ月ほどで辞めた。

 仕事を辞めたタイミングで中部農林高校の中途採用の話があり、迷うことなく飛び込んだ。「でもしか先生」とさげすまれた時代だったが、「子どもたちの触れ合いは思いのほか楽しかった」。両親と同じように新里にとって教員は天職となった。その後、高校時代に北農の教頭だった岸本本秀から声を掛けられ、北農で教壇に立つ。学年主任、教頭、校長と役職が上がっても「子どもたちのために何ができるか」を信条に走り続けた。

 「北農があったからこそ今の自分がいる」。生徒、先生と二つの視点で北農をみる新里にとって高校時代は人生の原点となった。

(敬称略)

(吉田健一)


 

【沿革】

 1902年4月  甲種国頭郡各間切島組合立農学校として名護に創設
  11年10月 沖縄県立国頭農学校に昇格
  16年3月  嘉手納に移転、県立農学校に改称
  23年4月  林科を設置し、県立農林学校に改称
  45年   終戦により廃校
  46年1月  北部農林高等学校として名護市東江に創設
  49年2月  名護市宇茂佐に移転
  58年   定時制課程を新設
  89年   農業科を改編して熱帯農業科、園芸工学科新設
  90年   林業科を林業緑地科、生活科を生活科学科、食品製造科を食品科学科へ改編