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憧れの教師の一言で体育教師に、沖縄のラクビー発展に貢献…宮城博さん 育てる喜びを知った高校時代、「太陽の花」発足に携わる…上間良廣さん 北部農林高校(11)<セピア色の春>


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上間良廣さんが所属していたハンドボール部の集合写真=1968年ごろ、北部農林高校(卒業アルバムより)

 沖縄ラグビー界の発展に貢献してきた県ラグビーフットボール協会会長の宮城博(72)は22期である。

 1950年に伊江村西江上で生まれた。伊江中卒業後、66年に北部農林高校に入学。陸上クラブで短距離や投てき種目の練習に打ち込んだ。

宮城博氏

 2年の3学期。北農創立22周年に当たる68年1月28日に校内駅伝大会が開かれた。疾走する宮城を、担任の牧志清順が見守っていた。

 牧志は60年に沖縄から初めて選抜高校野球大会に出場した那覇高校野球部の元主将。体育教師として北農に赴任していた。校内駅伝後、牧志が言った。「大学に行って体育の教師になれ」。憧れの教師の一言で進路が決まった。

 北農7期の山川宗賢は3年の担任で親身になって進路の相談に乗ってくれた。恩師らの助言で、伊江村育英会の奨学金を得て69年に中京大学に進学。月30ドル、4年間で計1440ドルの貸与型奨学金に「本当にありがたかった」と振り返る。

 入寮先で先輩にラグビー部に誘われた。全員がチームのために全力を尽くすラグビーの魅力にとりつかれた。人を背中に乗せてスクラムの低姿勢を保ち続けるトレーニングなどで強靱(きょうじん)な足腰や組み負けない体力づくりに励んだ。フォワードとして試合にも出るようになったが3年で大けがをした。モールの密集の中で肩を複雑骨折。事実上の引退だった。

 リハビリに励みながら「体育教師になる」という初心に立ち返った。猛勉強の末、在学中に沖縄の教員採用試験に合格。牧志に報告すると「よくやった」と喜んだ。

 ラグビーの指導では当初、大声でげきを飛ばしていた。あるとき、県外合宿で強豪校の指導者から「試合中は大声を出しても選手の耳には届いていない」と言われ、ハッと気づいた。「戦術を理解させて反復練習で体に覚えさせたら、本番は選手たちを信じるんだ」。2000年から11年連続で名護高を花園に導いた名将は今も県ラグビー界の発展に奔走する。

 宮城と同じ22期に、沖縄の花き産業をけん引してきた上間良廣(73)がいる。

 1949年に本部町新里で生まれた。上本部中学校卒業後、ジョギング中にハブにかまれた。駆け込んだ民家から病院に搬送され、九死に一生を得た。一浪して北部農林高校に合格し、車内に土ぼこりが舞うバスに揺られて1時間かけて通学した。畜産の専攻生4、5人の班で養豚を担った。夜中になることもあった子豚の誕生は「とにかくうれしかった」。北農で育てる喜びを知った。

上間良廣氏

 陸上部に入ったが疲労による故障で退部。休養してけがが治ったころ、友人に誘われてハンドボール部に入部した。攻撃の要のセンターとして那覇にも遠征した。

 北農卒業後、県農業試験場講習所に。69年7月、人類初の月面着陸の中継をテレビで見て感動を覚えた。画面がコマーシャルに切り替わり、「派米農業研修」の案内が放送された。「これだ」。米国で2年の研修に応募した。

 カリフォルニア州で研修中に「日本のユリの球根は質が悪く最低だ」と耳にした。納得がいかず下宿先のホストマザーに話すと、車で男性の元に連れて行ってくれた。「私が沖縄で品質のいい球根を育てる。取引してくれるか」。上間の提案は受け入れられ、帰国後、本部町の実家のサトウキビ畑をつぶしてテッポウユリの生産を開始した。

 76年、県花き園芸農業協同組合「太陽の花」発足に携わり、副組合長として販路拡大や生産者に指導に当たった。85年から2003年まで組合長として県内の花き生産をけん引した。現在も名護市許田で花き栽培を続ける。

 「沖縄の発展にものづくりは欠かせない。生産現場を見に来て視野を広げてほしい」と北農生に期待する。

(敬称略)

(松堂秀樹)


 

【沿革】

 1902年4月  甲種国頭郡各間切島組合立農学校として名護に創設
  11年10月 沖縄県立国頭農学校に昇格
  16年3月  嘉手納に移転、県立農学校に改称
  23年4月  林科を設置し、県立農林学校に改称
  45年   終戦により廃校
  46年1月  北部農林高等学校として名護市東江に創設
  49年2月  名護市宇茂佐に移転
  58年   定時制課程を新設
  89年   農業科を改編して熱帯農業科、園芸工学科新設
  90年   林業科を林業緑地科、生活科を生活科学科、食品製造科を食品科学科へ改編