prime

スペシャリストの原点、「琉球庭園」づくりにも注力…仲村弘喜さん ニューカレドニアとの絆を深め…仲村留美子さん 北部農林高校(14)<セピア色の春>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
被服専攻の生徒たち=1972年、北部農林高校(卒業アルバムより)

 北部農林高校で造園を学び、卒業後もスペシャリストとして活躍しているナカムラ造園土木(金武町屋嘉)社長の仲村弘喜(67)は27期だ。

仲村 弘喜氏

 仲村は1955年、金武町屋嘉生まれ。小学生の頃から植物が好きで庭で挿し木をしていた。「植物を学びたい」と71年に北農に進学した。

 柔道部に所属し、稽古に励みながら屋部村(現名護市)のブロイラー農家でのアルバイトも経験した。恩師に恵まれ、学業にも励んだ。

 17年に英国人植物学者E・H・ウィルソンが沖縄を訪問した際に案内役を務め「沖縄近代林業の父」と呼ばれる園原咲也から指導を受けた。農林産業教育に尽力した照屋照和は2年の担任。「名前を覚えろ」と言われ、懸命に植物の名称を記憶した。照屋は「専門的に学びなさい」と助言してくれた。大学進学はかなわなかったが「専門」を追求するその後の人生の支えになった。

 卒業後、北農での実習助手を経て、神奈川県の大津造園に20歳で就職したのを皮切りに首都圏の造園業界の最前線で経験を積んだ。土壌や水、気候、植物の病気などの知識を貪欲に吸収し、バブル景気の中で多忙を極める現場を渡り歩いた。

 98年にナカムラ造園土木を設立。金武町立中央公民館の中庭にある準和風庭園づくりに携わるなど、庭園をゆっくりと巡る習慣のない沖縄で造園文化の普及に努める。日本造園組合連合会沖縄県支部長として県産材を使いつつ技法や植栽にこだわった「琉球庭園」づくりに取り組む。

 樹木医、1級造園技能士、1級造園施工管理技士の資格を持ち、後進の育成に力を入れる。「造園は難儀もするが造っていく過程が面白い。北農で学ぶことをしっかり生かしてほしい」と在校生にエールを送る。

仲村 留美子氏

 仲村の1期上の26期には、沖縄ニューカレドニア友好協会会長の仲村留美子(67)がいる。

 留美子は54年、名護町(現名護市)川上区で生まれた。羽地中2年の頃に双子のきょうだいが生まれ、家事や育児を手伝った。材木業を営む父親に「家のことをこれからも手伝ってほしい。裁縫や料理などを学べる学校がいいのではないか」と北部農林高校への進学を勧められた。

 生活科で被服や食物など専門科目を学んだ。3年では被服を専攻し、ミシンや手縫いで洋服や小物を制作することに熱中した。校内の農業祭では、自身がモデルになってレース編みなどを施した自作のウエディングドレスを披露した。9人きょうだいで弟や妹の面倒を見ながらも吹奏楽部で活動。ホルンを担当した。「忙しくて大変だったが、今になって振り返ると全てがプラスになっている」と述懐する。

 思い出深いのは静岡実習だ。3年に進級した72年の5月15日に沖縄が日本に返還された。7月に実習に出発したため、パスポートは必要なかった。時代の移り変わりの象徴的な実習で、静岡テレビの取材も受けた。

 卒業後は香川県の短期大学で学んで沖縄に戻り、結婚を機に夫の出身地である古我知に移り住んだ。94年、ニューカレドニアに移民した夫のおじ家族が沖縄を訪れたのを機に、ニューカレドニアとの県系人家族らと交流が始まった。

 2006年に沖縄ニューカレドニア友好協会が発足。08年に夫が他界後も、4代目の会長として手紙のやりとりやニューカレドニアを訪問するなどして絆を深める。

 修学旅行生らをもてなそうと12年に羽地民泊推進協議会も設立した。ホルンで鍛えた腹式呼吸で指笛を響かせ、生徒たちを楽しませてきた。母校で学ぶ後輩たちに「人生の中で一番充実している時期だ。生涯の友に出会って将来の目標を探してほしい」と期待した。 

(敬称略)

(松堂秀樹)


 

【沿革】

 1902年4月  甲種国頭郡各間切島組合立農学校として名護に創設
  11年10月 沖縄県立国頭農学校に昇格
  16年3月  嘉手納に移転、県立農学校に改称
  23年4月  林科を設置し、県立農林学校に改称
  45年   終戦により廃校
  46年1月  北部農林高等学校として名護市東江に創設
  49年2月  名護市宇茂佐に移転
  58年   定時制課程を新設
  89年   農業科を改編して熱帯農業科、園芸工学科新設
  90年   林業科を林業緑地科、生活科を生活科学科、食品製造科を食品科学科へ改編