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培った「北農魂」、教員の道に生涯ささげ…瀬名波栄啓さん 子の預かりきっかけに保育の道へ…玉城善徳さん 北部農林高校(16)<セピア色の春>


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北部農林高校11期生の農業科の生徒。1列目右端が瀬名波栄啓さん、1956年

 英語教員として北部農林高校の教壇に立ち、豊見城高校校長などを務めた瀬名波栄啓(83)は11期。兄に北農2期生で名桜大学学長などを歴任した瀬名波栄喜(94)がいる。

瀬名波 栄啓氏

 1939年、久志村三原で生まれた。沖縄戦で召集兵だった父と1歳の弟を失う。父がどこで亡くなったかは分かっておらず、記憶もおぼろげだ。父の同期生によると「人一倍働き者でマクトゥ」だった。戦後、家計は苦しく、母の農作業の手伝いをするのが日課だった。瀬名波は母からよく「シメーシッチ、ムノーシラン」(学問は知って、物は知らん)と言い聞かされていた。この言葉は瀬名波にとって人生の道しるべとなる。

 幼少の頃から物おじしない性格で、学校の登下校時にはよく米軍車両を呼び止め、学校や家に送ってもらっていた。「その頃から英語に興味があったかもしれない」

 兄の影響もあり、55年、北部農林農業科に入学する。校内草刈り競争や「寄合原山」の開墾がよき思い出だ。高校でも英語が得意で、兄栄喜と同じく名護英語学校本科に入学した。61年、開学したばかりの沖縄大学に入学し、大学卒業と同時に母校で教壇に立つ。当時、米軍の通訳試験も通っていたが、教員の道を選ぶ。「子どもが好きだった。もし通訳を選んだとしてもいつかは教員になっていた」

 瀬名波にとって教員という仕事は生涯をささげるものだった。生徒一人一人と向き合うことを信条に心理検査に基づいた生徒指導に熱心に取り組んだ。学校改革を通じて生徒の不登校やいじめの撲滅に全力を傾けた。有り余る情熱から、回りからは「ブルトーザーと呼ばれていた」と笑う。そんな瀬名波にとって北農で培ったのは「北農魂」。瀬名波は「北農魂とは『知・技・徳・体』と意味づける。私の人生はその言葉に尽きる」と語った。

玉城 善徳氏

 沖縄市内で3保育園を運営する玉城福祉会理事長の玉城善徳(83)も11期。成績優秀をたたえられ、卒業時に北部地区農協組合長会から時計を贈られた。玉城が園長を務める室川保育園の園長室で今も時を刻んでいる。

 39年、本部町東の生まれ。「ウミンチュのような泳ぎ方だ」と言われるほど水泳が得意な少年だった。そろばんも得意で、数字には強かった。

 55年、北部農林高校に入学した。普通高ではなく実業高校を選んだのは就職を意識したからだった。「本当は那覇商業に行きたかったが、下宿するような経済的余裕はなかった。卒業後はそろばんを生かして銀行に勤めることを考えていた」。

 入学直後、担任の指示で級長となり、クラスのまとめ役を担ったが、玉城自身は「元々はおとなしくて、人前に出るのは苦手だった」と振り返る。クラブ活動に熱中したわけではなかったが、水泳で力を発揮した。55年の沖縄高校水泳競技大会に学校代表で出場し、自由形100メートルで3位入賞を果たした。測量競技大会にも出場するなど、充実した高校生活を送った。

 3年生になった玉城は担任から大学進学を勧められ琉球大農学部に入学。途中、経済学部に編入し卒業後は米軍基地で会計検査の業務に就いた。結婚し、コザで落ち着いた生活を送っていたが、体調を崩し軍の仕事を辞める。これが転機となる。「腰を痛めて僕が療養している頃、妻は助産婦をしながら、厳しい環境にある子どもを預かっていた。そこで妻と一緒に保育の仕事をすることにした」。

 コザには米兵相手の飲食店で働く女性がいた。米兵との間に生まれた子の育児に苦労する女性も多く、行政の支援も弱かった。復帰を控え、玉城は保育園を開設し、育児を支えた。復帰後、認可園となる。県私立保育園連盟会長として沖縄の保育環境の充実にも努めた。

(敬称略)

(吉田健一・小那覇安剛)

北部農林高校編は今回でおわり。次回は年明けから北中城高校編です。
 


 

【沿革】

 1902年4月  甲種国頭郡各間切島組合立農学校として名護に創設
  11年10月 沖縄県立国頭農学校に昇格
  16年3月  嘉手納に移転、県立農学校に改称
  23年4月  林科を設置し、県立農林学校に改称
  45年   終戦により廃校
  46年1月  北部農林高等学校として名護市東江に創設
  49年2月  名護市宇茂佐に移転
  58年   定時制課程を新設
  89年   農業科を改編して熱帯農業科、園芸工学科新設
  90年   林業科を林業緑地科、生活科を生活科学科、食品製造科を食品科学科へ改編