北中城高校は昨年12月、創立40周年の式典を開催した。開校は1983年4月。バスケットボールや自転車などのスポーツや文化活動で目覚ましい成果を上げ、注目を集めてきた。プロの分野で活躍する卒業生も多い。
プロバスケットボール琉球ゴールデンキングスでプレーした澤岻安史(43)は13期。男子バスケットボール部の躍進を支えた。キングスにも所属した弟の直人は15期。
現在、総合型地域スポーツクラブ・たくし学園の代表として子どもたちの体力づくりをサポートする澤岻には忘れられない試合がある。97年8月の京都インターハイ、仙台との一戦である。
「この試合がなければ別の人生を歩んでいたかもしれない」
こう語り、人生を左右した試合を振り返る。
琉球ゴールデンキングス元選手、澤岻安史(43)は1979年、沖縄市で生まれた。バスケットボールを始めたのは中学2年の頃。「ちょっとやってみようかな」という軽い気持ちだった。
95年、北中城高校に入学し、男子バスケットボール部に入部した。「優勝するんだ」と自分を鼓舞するように練習に打ち込んだ。バスケ部の新里勲監督は意気込む澤岻を昼休みに呼び出し、一緒に校内を散策することがあった。
「スポーツ選手の前に人として、こうあってほしいということを話してくれた。人として足りていない面があったのだろう。今思うと、先生にかまってもらっていた」
97年6月の全九州高校大会で男女バスケ部がアベック優勝。弾みを付け、8月の京都インターハイに臨んだ。ところがベスト4入りに挑んだ仙台との試合で北中城高は痛恨の逆転負けを喫した。「勝てると思ったが、自分の心の弱さで負けてしまった」
悔いは残したくなかった。福岡大学でバスケットを続けた。卒業後、教員を目指し一度は引退したが、その後、転機が訪れる。6年間のブランクがあったが、弟のいる琉球ゴールデンキングスへの入団に挑んだのだ。周囲は驚いたが澤岻は信念を貫いた。2008年に入団。澤岻は29歳になっていた。
チームの飛躍に貢献し、12年に現役を引退。たくし学園を開設して10年になる。スポーツ選手のあるべき姿を説く恩師との散策は澤岻の原点である。「スポーツを通して豊かな子を育てたい」。沖縄の人材育成を目指し、新たなステージに立つ。
琉球ゴールデンキングスU18ヘッドコーチの与那嶺翼(39)は17期。「バスケットボールをやりたい」という一心で北中城高校を選んだ。
1983年、沖縄市で生まれた。2歳上の兄の影響でバスケットボールを始め、コザ中学校のバスケ部で活躍した。その頃の北中城高、北谷高の強豪対決に心を躍らせた。99年に北中城高に入学。目標は強豪・能代工業高(秋田)に勝利すること。「頭の中はバスケットをやりたいという思いでいっぱいだった」
新里監督は部員を熱心に指導した。与那嶺が1年の時の担任でもあった。「新里先生は学業をおろそかにはさせなかった。人間教育に重きを置いた。靴の並べ方、ロッカーやトイレの掃除を大事にした」
新里監督は部員に練習内容や食生活を記録する練習日誌を書かせ、赤ペンでコメントを記した。「先生からコメントをもらうとうれしかった。これがモチベーションにもなった」と与那嶺は語る。
優秀で個性の強い選手が北中城に集まった。与那嶺はキャプテンとなった。忘れられない試合がある。2000年8月の岐阜インターハイ。準々決勝で能代工業高に66―65で惜敗した。翌年のみやぎ国体でも沖縄選抜チームは秋田選抜チーム(能代工業高単独チーム)に86―84で敗れている。「1点、1ゴール差の重みを実感した」
指導者を目指し、日本体育大へ進んだ。卒業後の06年、トライアウトを経て大分ヒートデビルズへ入団。09年から琉球ゴールデンキングスでプレーした。
21年、キングスU18ヘッドコーチに就任した与那嶺は今も1点、1ゴールの重みにこだわる。「沖縄のチームは爆発力はあるが、不安定さもある。最後までやり切る力はあるのか。これは沖縄の弱さでもある。『なんくるないさ』ではいけない」
高校時代に味わった「わずかな差」。その克服に与那嶺は挑み続ける。
(敬称略)
(小那覇安剛)
【沿革】
1983年4月8日 開校
86年3月1日 第1回卒業式
94年8月6日 全国高校総体で男子バスケットボール部準優勝
97年6月15日 全九州高校体育大会で男女バスケットボール部が県勢初のアベック優勝
2001年8月7日 全国高校総体の自転車競技1キロタイムトライアルで屋良朝春選手が優勝
06年8月6日 全国高校総体の自転車競技ロードレースで内間康平選手が優勝