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音楽の世界で活躍する二人が北中城高校で過ごした日々とは…與那嶺理香さん、LEONさん 北中城高校2 <セピア色の春>


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北中城高校の校庭。奥に野外ステージが見える

 バイオリニストの與那嶺理香(49)は北中城高校の7期。演奏家としてのキャリアは28年ほどになる。演奏会は体力勝負といい、体調管理に余念がない。「演奏家はアスリートです」と語る。

與那嶺 理香氏

 1973年、中城村で生まれた。音楽との出合いは小学生の頃。NHKの音楽番組で見たバイオリンに夢中になり、ごみ集積場で拾った段ボールでバイオリンを組み立てて遊んだ。

 母親にせがみ、小学校4年の時、中城ジュニアオーケストラに入団した。「きらきら星」が最初の練習曲。中学校では吹奏楽部に入部し、トロンボーンを吹いた。並行してバイオリンを続けた。

 89年、北中城高校に入学した。最初の印象は「制服がかわいい」。高校でも管楽器を吹き、バイオリンを弾く生活が続いた。

 個性的な教師が多かった。音楽教師で、県内の合唱指導で功績を残した嶺井政三が印象に残る。学校では生活指導を担当していた。「校則違反の靴下を集めるんですよ。『北中城のジンベイザメに食わせるぞ』と言って」

 朝の登校は「闘いだった」。遅刻しそうな日にはバス停から校門までの約300メートルを懸命に駆けた。

 「バス停から校門が見えない。猛ダッシュです。校門に着いても校舎まで距離がある。靴を持って外階段から教室に入ろうとしても、そこに先生が立って待っている。朝から戦争です」

 92年、北中城高校を卒業。県立芸術大学音楽学部で学び、バイオリンの演奏技術を学んだ。琉球交響楽団の設立に参加。新日本フィルハーモニー交響楽団などでも演奏経験がある。

 現在、沖縄に拠点を置き、県内外で演奏活動を続ける。活動を通じて音楽と地域づくりの接点も見いだした。「生活の中にバイオリンがあった。できないことへの悔しさはあったが、やめたいと思ったことは一度もない」

LEON氏

 與那嶺が在学中、大型の外車に乗って学校を訪れる保護者がいたという。ロックバンド紫のリーダー・ジョージ紫だ。次男のLEON(レオン、比嘉礼音)が通っていた。8期である。

 74年、北中城村で生まれ、5歳から11歳まで米国で育った。帰郷後、北谷町の北玉小学校の5年生に編入した。日本語を忘れていた。「日本語が全くできず、最初から言葉を覚え直した。『これ何』が口癖になった」。日本語学習のテキストは漫画週刊誌の「少年ジャンプ」。漢字にルビが振ってあるので言葉を学ぶのに役立った。

 幼い頃から音楽が身近にあった。父のバンドが拠点を置いていたライブハウス・キャノンに足を運んだ。沖縄ロックの一時代を築いたミュージシャンからドラムの演奏技術を学んだ。中学生の時、兄のRAY(レイ)のいるバンドLEQUIO(レキオ)に参加し、演奏活動を始めた。

 90年に北中城高校に入学した時にはプロミュージシャンを自認していた。長髪を明るい茶色に染めて登校した。「校則的には許されなかったと思うが、長髪は商売道具みたいなもの」と語る。

 高校生活の3年間は自然と音楽に比重を置いた。「沖縄市民会館を借り切ってライブをしたら千人も集まった。すごかった」。

 卒業後、「本気で音楽をやるなら学んでこい」という父の勧めで米国の音楽専門学校で学んだ。帰国後の2000年にライブハウス・セブンスヘブンコザを開店し、ライブ活動も再開した。

 幼少時から父の姿をずっと見ていた。音楽で生きていくことを当然のことと思ってきたが、最近、は「そんな簡単なことではない」と実感する。沖縄市中心部に拠点を置いて22年。コロナ禍にも苦戦してきた。踏ん張りどころだ。

 「街を盛んにしたい。沖縄のロックの伝統を発信していきたい」

 店でドラムをたたきながら音楽の街コザの明日を思い描いている。

(敬称略)

(小那覇安剛)


 

【沿革】

1983年4月8日  開校
 86年3月1日  第1回卒業式
 94年8月6日  全国高校総体で男子バスケットボール部準優勝
 97年6月15日  全九州高校体育大会で男女バスケットボール部が県勢初のアベック優勝
2001年8月7日  全国高校総体の自転車競技1キロタイムトライアルで屋良朝春選手が優勝
 06年8月6日  全国高校総体の自転車競技ロードレースで内間康平選手が優勝