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信念を貫き「旋風」再び「打倒能代工」掲げ奮起<バスケットボールに恋をして 名将・安里幸男のメッセージ>3


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子

 Bリーグ所属のプロバスケットボールチーム「琉球ゴールデンキングス」の活躍に県民が盛り上がり、今年8月のバスケW杯の開催地にもなるなど、沖縄ではいまバスケ熱がこれまで以上に高くなっています。沖縄の高校バスケットボール界の一時代を築いた名将・安里幸男さんのストーリーに迫った、2014年掲載の連載「バスケットボールに恋をして」を改めて掲載します。

 

辺土名高、北谷高を全国高校総体3位に導くなど、沖縄のバスケットボール界で一時代を築いた安里幸男さんが今春、前原高で定年退職を迎えた。人一倍の情熱で多くの選手や指導者を育てた名将が、経験から得たものや後進への思いなどを語る。

1991年、北谷の全国高校総体3位を伝える新聞紙面。くしくも、試合日は78年に辺土名が3位になった時と同じ8月6日だった

 

ーー大学卒業後、中学校の補充教員やアルバイト、村役場での勤務などの傍ら、辺土名高でコーチを続けていた安里幸男さん。29歳の時、大きな転機が訪れた。

体を壊して肝機能障害で入院することになり、医者に「30代までの命」と言われた。「人生終わりかな」と思うととても悔しくなった。「もっとバスケがしたい」と。それなら教員になるしかないと思った。それからは1日12時間以上の猛勉強。参考書は病院のベッドを越すほど積み上がった。退院1週間後に試験を受けて合格し、30歳で豊見城南高校に赴任した。

憧れの加藤廣志先生(当時能代工監督)とやっと同じ土俵に立てたと思った。うれしさのあまり、字のうまい校長先生に「打倒能代工」と書いてもらった掛け軸を机の前に飾った。同僚たちにはいろいろ言われたし、笑われもした。僕は「今は無理かもしれないけど、いつかやりますよ」という思いでいた。豊見城南では最後の年に九州3位に入り、それを財産に1989年、北谷へ赴任した。

最初の赴任校、豊見城南で机の前に飾っていた「打倒能代工」の掛け軸

ーー北谷では赴任9カ月後の小橋川杯を制して県1位になり、さらに91年には再び“旋風”を起こして全国高校総体3位に入った。

赴任した当初、同僚に「北谷の生徒はひじるー(冷たい)だよ。なかなか燃えてくれない」と言われた。でも、他の人にそうだからといって僕にもそうとは限らない。自分なら絶対にできると思っていた。小橋川杯で優勝して、すぐに加藤先生にお願いして全国の有力校が集まる「能代カップ」に参加させてもらった。ここで自分たちのプレーが十分通用した。特に3ポイントシュートの得点は1、2位が北谷の選手。これを生かさない手はない。脚力と3点シュートという長所をとことん伸ばした。速攻でボールを運んでも2点ではなく3点を狙った。遠征や九州大会など、県外に行くたび課題を持ち帰って、強化しての繰り返し。そうやって91年を迎えた。

91年、浜松総体準決勝の相手は初芝(大阪)。韓国人選手が4人いて、高さだけじゃなくてコンタクトの強さもうまさもあった。80−84の接戦で負け。辺土名の3位は充実感があったが、この時は悔しさでいっぱい。優勝を狙っていたから。決勝戦を観戦しながら「もっとああしておけばよかった」という思いが脳裏を巡っていたね。翌年には能代工を試合で負かした。目標を掲げてから10年目にして、思いを遂げた。(まとめ・大城周子)

(2014年5月3日掲載)