北谷の通称「ゼロ番地」なぜ国有地に 申請者の息子、沖縄県の対応疑問視 1968年埋め立て申請


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公有水面の埋め立て申請について説明する陳情者の代理人ら=14日、県庁記者クラブ

 沖縄の日本復帰前の1968年、琉球政府に公有地水面埋め立ての許可申請を提出し、その後認可が下りないまま法改正で沖縄県北谷村(現・北谷町)内の埋め立て地の所有権が国に移った男性の息子の代理人らが14日、県庁記者クラブで会見を開き、これまでの県の対応を疑問視し、県に対して申請を許可することなどを求めた。

 代理人の一人で公認会計士の樫谷隆夫氏らによると、男性は66年に北谷村の約60万7千平方メートルを埋め立てた後、約2万5千平方メートルも追加で埋め立てた。その後男性は琉球政府の指導で、68年に追加埋め立て分の免許を申請し、琉球政府(復帰後は県)も72年に北谷村との調整を終えた。

 しかし県が調整後も申請を認可しないまま、74年の公有水面埋立法改正による追認制度の廃止で土地は無免許による埋め立て地とされ、最終的に国の所有となった。これらの経緯から通称「ゼロ番地」として知られる。

 男性や樫谷氏らは県のミスで申請が許可されなかったなどとして、例外的に申請を許可することなどを県に求めてきた。一方で県は追認制度が既に廃止されていることなどから、申請の許可には否定的という。そこで、男性の息子は昨年12月、県議会に対して議論を求める陳情書を提出した。

 会見で樫谷氏は県のこれまでの姿勢を「官尊民卑だ」と批判した。その上で県議会に対し、議論を踏まえた意見を「しっかりと玉城知事に伝えてほしい」と訴えた。

(武井悠)