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遠出した経験から「自転車漬けの日々」に プロ競輪選手で村議の屋良朝春さん、元五輪出場の内間康平さん・北中城高校5<セピア色の春>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 自転車部強豪として知られる北中城高校。2008年7月に競輪選手としてプロデビューし、2年後にS(スーパースター)級に昇格した屋良朝春(38)は17期生だ。

 屋良は1984年生まれ、北中城村渡口出身。小学3年から中学3年まで上地流の道場で空手を続ける傍ら、ミニバスケやバレーボールの部活も掛け持ちしていたスポーツ少年だった。週末には「ママチャリ」に乗って友人と名護市まで遊びに行った。競輪選手のポテンシャルがあったかもしれない。

屋良朝春氏

 競輪との出合いは中学3年の時。同じくプロ競輪選手になった幼なじみの喜納隆志と県総合運動公園で自転車に乗って遊んでいたところ、北中城高校でコーチを務めていた翁長努の目に留まった。才能を見抜いた翁長が自転車やシューズを無償提供し、そこから自転車の練習にのめり込んだ。「負けず嫌いだったから、高校生と速さを競うのが楽しかった」と言う。卒業後、北中城高校に入学し自転車部に入部した。

 すぐに頭角を現した屋良は1年生でインターハイに出場、2001年の全国高校総体では、県勢初の快挙となる優勝を果たした。

 高校卒業後は日本大学に進学。当時の生活は「自転車にだけ乗っている大学時代だった」。「1年生は奴隷、4年生は神様」という上下関係が厳しかった大学の部活時代。北中城高校出身で2期上の普久原奨には大学では話しかけることもできなかったが、目の届かない沖縄に帰郷した時には「ゆんたくしてくれた」と振り返る。

 けがが響き18年にS級からA級に降格したことを機に活動拠点を東京から沖縄に移した。落ち着いた環境でコンディションを整え、A級とS級を行き来する中、22年からは北中城村議として二足のわらじも履く。後進の育成を応援し、スポーツ振興を生かしたまちづくりを目指している。

 16年のリオデジャネイロ五輪の自転車ロード出場経験を持つ内間康平(34)は22期生。今も自転車漬けの日々を送る。

 1988年、浦添市で生まれた。幼少の頃は運動が苦手で、三輪車に乗ることもなかったという。自転車に乗り始めたのは小学5年生頃。ある日、趣味の釣りをするために泊漁港まで自転車を走らせた。友人との初の遠出に今まで味わったことがない達成感が胸いっぱいに広がった。その日を境に自転車にのめり込んだ。

内間康平氏

 中学2年には公式戦で初優勝し、その後も数々の大会で実績を積んだ。2004年、外部コーチの伊礼由智の勧めで北中城高校に進学、競技人生をスタートさせる。内間は「好きな時に乗っていた自転車を練習で乗るようになり、戸惑いもあった」と振り返る。

 高校では特進クラスに在籍したが、朝練に早朝講座、夏季講習、夏季合宿と、勉強と部活の二重生活は1年で限界を迎えた。それでも1年の県高校総体では見事優勝。しかし、その後の九州総体では最下位となり「これまであった自信が粉々に打ち砕かれた」。

 九州での悔しさをばねに内間はひたすら練習を重ねた。高校2年の1学期には外部コーチが運天一輝となり、練習方法ががらりと変わった。科学的な手法を取り入れた練習をこなし、全国に照準を合わせた。練習のきつさから泣いたこともあるという。猛練習のかいもあり高校3年の全国総体では県勢初のロード種目優勝を達成し、高校卒業直後にU23の日本代表にも選出された。内間は高校時代について「自転車漬けの日々だった。大会で優勝すると体育館で皆の前で表彰されるのがうれしかった」と語る。

北中城高校時代の内間康平(後列右から4人目)

 鹿屋体育大を経てプロの世界に入った内間は国内外のレースで何度も表彰台に上った。20年に現役を引退し、現在は沖縄で「サイクリングガイド」として、自転車と沖縄の魅力を発信し続けている。

(敬称略)

(島袋良太、吉田健一)

北中城高校編は今回でおわり。


 

【沿革】

1983年4月8日  開校
 86年3月1日  第1回卒業式
 94年8月6日  全国高校総体で男子バスケットボール部準優勝
 97年6月15日  全九州高校体育大会で男女バスケットボール部が県勢初のアベック優勝
2001年8月7日  全国高校総体の自転車競技1キロタイムトライアルで屋良朝春選手が優勝
 06年8月6日  全国高校総体の自転車競技ロードレースで内間康平選手が優勝