【評伝・西山太吉さん】権力監視を訴えた生涯記者(松元剛琉球新報社常務)


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沖縄返還密約訴訟で全面勝訴し記者会見する原告団の西山太吉さん(右端)=2019年5月、東京都

 日本の戦後報道史の中で際立つ存在感を放ち、基地の重圧にあえぐ沖縄に思いを寄せ続けた不世出の記者が逝った。西山太吉さんは為政者にも自らにも、そしてメディアに対しても厳しく「情報は主権者である国民のもの」「沖縄に基地を押し付け続ける、日本の対米追従の病弊を断ち切れ」と訴え続けた。権力監視が記者の最も重要な仕事であることを背中で示す生涯政治記者だった。

 高校、大学生時代から記者を天職と志し、毎日新聞政治部で自民党、首相官邸、外務省など、重要な持ち場を巡り、特ダネを連発した。

 自民党穏健派の宏池会に深く食い込み、日米関係や政治の奥底に潜む本質を照らし出した。データと取材で得た情報を駆使した分析眼は群を抜いていた。だが、権力に肉薄したエース記者は、皮肉にも、国民に虚偽の説明を続け「政権益」の維持に執着した権力の策略に足をすくわれる。

 沖縄返還を巡り、米国が支払うべき巨額の米軍用地原状回復補償費を日本政府がひそかに肩代わりしたことをつかんだ西山さんは、外務省の女性事務官から密約を示す公電を入手した。佐藤政権は国家公務員法違反の容疑で西山さんと事務官の逮捕に踏み切る。男女スキャンダルに世論の関心が移り、権力監視の役割を果たした西山さんが逆に天職を奪われた。

 刑事裁判のさなかに退社し、故郷・北九州市に帰った後の不条理に満ちた暮らしを振り返り、西山さんは「四面楚歌(そか)、天涯孤独、息をしているだけの失意の日々」と述懐した。琉球新報の記事データベースで「西山太吉」を検索すると、2002年まで1件もない。「社会的に抹殺された状態」(西山さん)だった。

 四半世紀余がすぎた2000年代に入り、我部政明琉球大学名誉教授らが発掘した米公文書や元外務省北米局長の吉野文六氏らの証言により、密約の存在が相次いで明らかになった。「国家のうそ」が白日の下にさらされ、西山さんは“復権”を果たす。密約の開示を国に求めた訴訟などを通し、西山さんを後押ししつつ、その経験から学びたいと、社の枠を超えて多くの記者がはせ参じ、「西山学校」とも言える良質なメディアスクラムも築かれた。

松元 剛

 初めて西山さんを北九州市に訪ね、沖縄返還密約に関するインタビューをしたのは2005年の5月だった。射すくめるような眼光と峻烈(しゅんれつ)な政権批判に身がすくむ緊張感を抱いた。5月15日付2、3面の見開き紙面の見出しは「過重な基地負担の原点」「問われる政府の外交」だった。当時の佐藤栄作首相が西山さんを弾圧した経緯をたどる記事には「佐藤政権の責任不問 すり替えられた『国家犯罪』」の見出しが立った。

 この日を機に、琉球新報は「外務省機密漏洩事件」「西山事件」の呼称をやめ、「沖縄返還密約事件」に改めた。不遇の日々を支えた啓子夫人から電話をもらい、「沖縄の新聞が事件の本質を報じ、沖縄返還密約事件に改めてくれた。西山がとても喜んでいる」と語ってくれたことが記憶に新しい。

 最後に西山さんにお会いしたのは昨年7月だった。沖縄の日本復帰50年の感想を聞くと、「密約が証明されても政府の施策は改められず、まだ広大な米軍基地が沖縄に残っている。当事者の一人としてじくじたる思いだ」「日本のメディア全体の、権力監視機能の衰えが心配だ」と答えた。

 自衛隊の大幅増強、日米の軍事一体化が県民の頭越しに進む今、西山さんの見解を聞くことはできない。復帰50年の節目に6度目の沖縄に招くことができなかった。悔やまれてならない。
 (常務取締役広告事業局長・松元剛)