国連演説の経緯 阿部藹<託されたバトン 再考・沖縄の自己決定権>2


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同時通訳者用に事前に提出されたスピーチ原稿

 前回は、2015年に当時の翁長雄志沖縄県知事が国連人権理事会で口頭声明を発表し「沖縄の人々の自己決定権」という楔(くさび)を残したこと、そしてそれが日本政府によって「公式に否定されていない」という事実を述べた。今回は、翁長氏が国連人権理事会で演説を行うことになった経緯を簡単に振り返る。それはまさに、沖縄の「市民社会が作った道」だった。

 米軍普天間飛行場の県内移設断念などを求める「建白書」の実現を目指すために結成された「島ぐるみ会議」は、沖縄に押し付けられた諸問題を国際社会に訴えようとしていた。そのために「対米」と「国連」の二つの部会が設置され、それぞれの部会長に高里鈴代氏と琉球大学教授の島袋純氏が就任した。島袋氏が率いた「島ぐるみ会議・国連部会」が、県知事の国連演説というプロジェクトに取り組み、実現させたチームである。しかし、当初から沖縄の基地問題を「人権問題」として国連に訴えるという大きな目標は定めていたものの、どの権利について、国連のどの機関に、誰がどう訴えるのか、具体的な計画は全く決まっていなかった。

 それが実質的に動き始めたのは、翁長氏がスイス・ジュネーブに訪問する約8カ月前の2015年1月6日。この日、島ぐるみ会議の事務局長だった玉城義和県議(当時)と国連部会長の島袋氏らが上京し、玉城氏の伝手(つて)で日本発の国際人権NGO・IMADR(反差別国際運動)のスタッフと面談した。IMADRは国連人権理事会が開かれるジュネーブにも事務所を持ち、世界各地のNGOとも連携している。特にジュネーブ事務所で働いていた小松泰介氏は国連人権システムに精通し、アムネスティ・インターナショナルなど国際的なNGOや国連の専門家にも幅広い人脈を持つ、国際人権の実務的エキスパートである。この面談で、その年の9月の国連人権理事会に沖縄から県議を中心とした代表団を送ること、さらにそのための足掛かりとして、(1)国連特別報告者を沖縄に招聘(しょうへい)する、そして(2)普遍的定期審査(UPR)でロビイングを行う―という活動方針が定まった。

 国連の最高の意思決定機構は国連総会だが、沖縄の抱える問題を「人権問題」として国際的に訴える場としては、人権問題に関して最も権威のある意思決定機構である人権理事会ほど相応(ふさわ)しい場所はない。しかし、人権理事会に一度参加して声明を発表するだけではインパクトは弱い。そのため、国連特別報告者の沖縄招聘などを通じて事前に県内世論や国際世論を喚起した上で代表団が国連に赴くという、ある意味で“無謀な”8カ月に及ぶ計画が立てられたのだ。

 筆者はこの面談の一週間後にボランティアとして島ぐるみ会議・国連部会に関わり始めた。実績もなければ国際人権の専門家もいない中、県内外の市民団体や研究者の協力のもと、島袋氏やスタッフが文字通り東奔西走し、足掛かりとなるジュネーブでの普遍的定期審査(UPR)ロビイング、さらには国連特別報告者の招聘も実現させ、国連で沖縄の現状を人権問題として訴える素地を整えていった。

 一方で、最終目標である9月の人権理事会への代表団派遣については議論が続いていた。前述したように、島ぐるみ会議の当初の計画では国連へ派遣するのは県知事ではなく県議たちが想定されていた。それは、沖縄保守の源流を継ぐ政治家である翁長氏が国連という舞台で沖縄の人権問題を提起するところまで踏み込むのか、見極められないでいたためだ。

 しかし、その躊躇(ちゅうちょ)は翁長氏の政治姿勢によって打ち破られた。政府との交渉で菅義偉官房長官(当時)を前に一歩も引かずに沖縄の立場を説明する態度や、5月の県民大会で発した「うちなーんちゅ、うしぇーてぃないびらんどー」という言葉で、翁長氏は戦後沖縄の苦難の歴史と先人たちの自治権獲得のための闘いを県民に想起させ、辺野古新基地建設をめぐる政府との対立を「沖縄の誇り」や「アイデンティティ」に関わる問題へと変容させた。島ぐるみ会議の中に、「沖縄から国連に派遣するなら知事しかいない」という空気が生まれたのは必然だった。6月に行われた会議で、翁長氏に国連人権理事会訪問を要請する方針が正式に決定された。

 その後、翁長氏の支援者などからも協力を取り付けながら、「県知事の国連訪問」への準備は8月に入った頃から本格化した。久茂地にあった島ぐるみ会議の小さな事務所から、国連部会のスタッフが人権理事会での発言枠確保に向けての調整、サイドイベントと呼ばれるシンポジウムの準備、通訳の手配、国連関係者とのアポどりなどを進めていった。しかし、肝心の知事の口頭声明については、県庁サイドとの調整が遅々として進まず、翌月の人権理事会訪問自体が実現するかどうかやきもきする時間が続いた。ちょうどこの時、辺野古での作業を1カ月中断した上で移設を巡る集中協議が行われており、県と政府との間の交渉が進展する可能性もあったためだ。

 しかし、最後の協議で菅官房長官が『戦後生まれなので、沖縄の置かれてきた歴史についてはなかなか分からない』と述べ、翁長氏が『お互い別の70年を生きてきたような気がする』『全力を挙げて阻止をさせていただきます』と返したと伝えられているように、集中協議は9月7日、「決裂」という形で終了した。

 その2日後の9月9日、沖縄県庁から島ぐるみ会議・国連部会宛にペンディングになっていた口頭声明の第一稿が届く。そこに含まれていた言葉こそ、「沖縄の自己決定権」だった―。
 (琉球大学客員研究員)
 (第4金曜掲載)