今帰仁疎開団の写真発見 対馬丸の数日前に出港 46年、宮崎で撮影 元・団員が村に提供


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今帰仁村からの集団学童疎開の児童らと永山(旧姓・与那嶺)静福さん(2段目左から5人目)=1946年9月、宮崎県西諸県郡真幸村(伊集園子さん提供)

 【今帰仁】1944年8月に那覇港を出港した日本海軍の巡洋艦「鹿島」に乗船した今帰仁国民学校の集団疎開団の写真が、このほど見つかった。鹿島は、疎開の学童らを乗せた対馬丸の数日前に那覇港を出港しており、ジグザグ航行で攻撃を避けながら鹿児島県にたどり着いた。今帰仁村歴史文化センター元館長の仲原弘哲さん(73)は「今帰仁の疎開団の写真が見つかるのは珍しく、大変貴重だ」と話している。

 疎開団は約80人。米潜水艦の魚雷を避けるため蛇行しながら鹿児島に着いた。その後、旅館で3~4泊し、汽車を乗り継いで疎開先の宮崎県西諸県郡真幸村(現えびの市)に到着した。疎開先の真幸青年学校での集団生活になじんできた頃、10・10空襲で今帰仁の運天港も爆撃されたと知り、全員が嘆き悲んだ。夜通し声を出して泣く児童もいたという。

今帰仁村の集団学童疎開の名簿(伊集園子さん提供)

 疎開団長を務めた今帰仁国民学校教諭の永山静福さん(旧姓・与那嶺)の長女で、一家で疎開した伊集園子さん(82)=名護市=が46年9月に撮影された集合写真を保管していた。伊集さんは、共に疎開した長兄の永山恒(ひさし)さん(90)がまとめた疎開体験の手記と共に写真データを今年2月に今帰仁村歴史文化センターに提供した。

 永山団長は当時32歳。今帰仁国民学校集団学童の学童ら七十数人を引率した。食糧不足で疎開団が困窮する中、疎開先周辺の畑のサツマイモをかじった生徒の多くが回虫に苦しめられた。

 恒さんによると、そのうち一人の男児が体内の回虫を駆除できず栄養失調で亡くなったという。その出来事を機に永山団長は「自分たちで食べ物を調達しよう」と、真幸青年学校の校庭を開墾、野菜やイモなどを育て安全に配慮した食料を子どもたちに与えた。

 団長は枕元に男児の遺骨を置いて過ごし、46年9月に沖縄に引き揚げたときに男児の親に遺骨を引き渡したという。団長は沖縄に戻ってから結核を患い、1年足らずで亡くなった。

 疎開団の名簿は、引率教員の島袋善恒さんが46年9月に鹿児島から沖縄に引き揚げた際にまとめた。伊集さんは名簿も今帰仁村歴史文化センターに提供した。
 (松堂秀樹)