河瀬直美エッセー(1)海邦国体と私 海の向こうへの眼差し <とうとがなし>


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河瀨直美さん

 1987年の海邦国体は、沖縄が本土復帰を果たしてから15年の歳月が経過した年に開催された。モノレール建設計画に携わる宜野湾市大山在住の宮城さん宅に、私はバスケットボ―ルの高校選抜奈良県代表として民泊させていただいた。

 選手を受け入れるはずのホテル建設が遅れていて、民家での宿泊になったと聞いた。今から思えば、宮城家は2歳、4歳、6歳の幼な子を抱えた若いご夫婦である。特にお母さんにとっては、大きな負担となったはずの日々。選手の食事はもとより、生活全般、物心両面において手厚いおもてなしをしていただいた。当時そんな事に配慮できる私ではなかったし、とにもかくにもバスケのことしか頭になかった。

 選手を3名ほどに分けて民泊をさせていただいていた大山地区のみなさんが公民館で歓迎会をしてくださった時のことを鮮明に覚えている。エイサーなど見たことのない私にとって、太鼓や指笛、陽気で屈託のない人々のありようは、本土の人間が忘れてしまったもののように思えて心を奪われた。人々が話す言葉の意味がわからないことも手伝って、それはまるで異国の地の文化を目の当たりにしているようで、大きなカルチャーショックを受けた。

 毎日の練習のはざまで、宮城家の子供たちと触れ合う機会は新鮮だった。

 学校から帰ってきた長女のルミちゃんと次女のナミちゃんと近くをお散歩している時、金網の向こうで米兵が銃を持って立っている姿を間近に見た時の衝撃。

 小さな商店で見たこともないお菓子の食感と味に驚いたり、家よりも大きな亀甲墓に目を奪われたり、「カンプウしばって」と言われて髪の毛を三つ編みにしてあげたこと。

まるでアートのような防波堤にて。練習終わりに、チームメイトや宮城家の子供達と訪れた思い出の場所(左端が河瀨直美)=1987年

 お母さんやお父さんには海沿いのカラフルな落書きで埋め尽くされた防波堤まで連れていってもらって夕涼みをしたこと。

 その時、お父さんが防波堤やモノレール建設に携わり、沖縄が発展してゆくことに誇りを持って語ってくれた横顔を今でも忘れない。若い夫婦の、海の向こうに向けられた眼差しを眩しく感じていた。

 ブルーシールアイスの味、ステーキの分厚さ、むせかえるほどの湿気。集落の皆さんの応援もあって、ベスト16まで勝ち進んで私の現役バスケットボール生活は他でもない沖縄で終了した。

 この後訪れるバブル経済と揶揄された時代の中である種の富と発展を手に入れた日本が、多くの伝統と文化を置き去りにしてしまった現実を目の当たりにし、どうしようもない心地になった。それらの感覚を物語に変え、映画として世界に発表してきた。

 百年に一度と言われる感染症は世界中に様々な脅威をもたらした。コロナで分断された三年の歳月を経て、出逢いなおすように沖縄とのご縁をいただいた。あれから35年経ち、この地の今を見つめながら、人類がこれからの時代に本当に必要なモノゴトを確かめるように、このコラムを綴ってゆこうと思う。

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かわせ・なおみ 映画作家。奈良を拠点に映画を創り続け、一貫したリアリティの追求による作品創りは、カンヌ映画祭をはじめ国内外で高い評価を受ける。近年は映像による独創的な視点で琉球舞踊を演出し、沖縄を代表する伝統的な紅型の文化発信にも力を入れている。プライベートでは野菜やお米も作る一児の母。

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「とうとがなし」…奄美地域で「ありがとうございます」という意味で使われているあいさつ。

※注:河瀬直美氏の「瀬」は「頁」が「刀」、その下に「貝」