浦添移設計画に日米合意も、「那覇返還」は早くて30年代末 返還合意から50年、紆余曲折 「県内移設」条件がネックに


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那覇軍港

 米軍那覇港湾施設(那覇軍港)について日米安保協議委員会(現在の通称2プラス2)は1974年に全面返還に合意したが、県内移設という条件がネックとなり約50年を経た今もなお返還に至っていない。日米両政府は2013年、返還時期を「28年度またはその後」とすることで合意していた。ただ、県は移設に向けた手続きや埋め立て工事を含めて那覇軍港返還は早くても30年代末との見通しを示している。

 那覇軍港の総面積は約55.8ヘクタール。1945年の沖縄戦以前は市街地で、戦後に米軍が埋め立てた部分もある。那覇空港に隣接し、跡地利用への期待も大きい。

 移設先は95年の日米合同委員会で那覇港の浦添ふ頭地区に決定。2001年に当時の儀間光男浦添市長が受け入れを表明した。国と那覇・浦添両市でつくる移設協議会は03年、浦添ふ頭地区北側にL字形の代替施設を配置する「北側案」を了承した。

 13年に移設反対を訴える松本哲治氏が浦添市長に当選したが、15年に受け入れに転じた。17年には軍港と民港を一体とする「南側案」を掲げて再選したが、20年に再び翻意して北側案を受け入れた。浦添移設を容認する玉城デニー知事は20年に加藤勝信官房長官(当時)と会談した際に「浦添移設は時間がかかる」として那覇軍港の先行返還を要請。国は受け入れなかった。

 防衛省は22年3月、民港北側約49ヘクタールをT字形に埋め立てる代替施設の形状案を示し、同10月には県と那覇・浦添両市が合意した。
 (梅田正覚)