「私たちはどうして泣き寝入りしなくては、いけないのでしょうか」。1970年6月30日、同年1月に米少年らの発砲で負傷した南風原町の内山キミヨさん(87)=当時34歳=はTBS(東京・赤坂)スタジオで佐藤栄作首相(当時)の写真と対峙し手紙を読み上げた。日米の沖縄返還交渉は大詰めで、にわかに沖縄が注目されていた。殺人、強姦致死傷、拉致…。1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約で日本から切り離され米統治下に置かれた沖縄。米兵による事件事故が相次ぐ中、内山さんには、声にできない女性たちの憤りを代弁する思いもあった。
70年1月19日昼過ぎ、座卓で昼ご飯を食べ終わった後だった。「パンパンパン」。大きな音に思わず立ち上がった瞬間、内山さんは右足に違和感を感じた。隣には夫の照雄さん=当時36歳=と末っ子の息子=当時1歳=が座っていた。
銃弾は窓のアルミサッシを貫通。ジュラルミン製の炊飯器をぶち抜き、破片は右太ももの骨で止まっていた。自宅の外のガスボンベに穴が空き、壁に銃痕がいくつもあった。
事態を察知した照雄さんは木刀を持って飛び出した。向かいの米軍住宅街の高台に子どもたちの姿が見えた。
ゲートは全軍労のストで封鎖されていた。「ちょっとどけ!」。フェンスをよじ登る照雄さんをスト隊が取り押さえた。「どうしたんですか!」。ストを取材していた記者らが取り囲んだ。「早く止めないと、もっと被害が出る!」
記者らは診療所に駆けつけた。診療所の電話は鳴り続け、医師は本土メディアへの応対に追われた。「2時間、手術台で放置されて待たされましたよ」。キミヨさんは苦笑する。
「もしガスボンベが爆発していたら…。立ち上がっていなければ頭か胸に当たっていた。子どもを抱っこしていたら子どもに当たっていたかも。ただ運が良かった」と振り返る。
米軍捜査機関・CIDは米少年3人を検挙した。暇つぶしに親のライフル銃を持ち出し、ガスボンベを標的に射撃していた。補償額は約2千ドル。3人の親が650ドル支払うことになった。1人は支払わないまま帰国した。
復帰を控え、沖縄への関心が本土で高まる中、メディアはこぞって「沖縄の声」としてキミヨさんを取り上げ、TBSにも招かれた。しかし本土メディアの取材は72年の日本復帰で下火となり、事件も忘れられた。
数年後、キミヨさんは「米軍被害で未収があれば連絡を」という沖縄総合事務局の広告を新聞で見た。電話をすると、職員に「内山さんは良いほうですよ。1円ももらっていない方がいるんですよ」と言われた。「引かざるを得なかった。そういう時代。泣き寝入りですよ」
米統治下で被害に遭った女性たちは警察に届けられない人も多かった。「私よりひどい目にあった方は他にもたくさんいる」。声に出せなかった女性たちをおもんぱかる。今も米軍の事件事故や流れ弾が絶えない。50年前の事件を思い起こす現実が、今も沖縄に横たわっている。
(中村万里子)