作品の本質は「戦争責任」 「はだしのゲン」削除<乗松聡子の眼>


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乗松 聡子

 広島原爆で被爆した故中沢啓治氏による漫画「はだしのゲン」を、2023年から広島市の平和教育プログラムの教材から削除すると広島市教委が決定したことが波紋を呼んでいる。市教委の理由は「漫画の一部を教材としているため、被爆の実相に迫りにくい」とか、子どもが家計を支えるために物乞いをしたり人の家のコイを釣ったりする場面が「生活実態に合わない」「誤解を招く」など曖昧で、本当の理由は別にあるように聞こえる。

 5歳のとき長崎で被爆した、日本被団協の木戸季市事務局長は2月28日発表の談話で、この決定について「原爆が人間に何をもたらしたか全く分かっていない」と怒りを表明した。「『はだしのゲン』は多くの被爆者の体験を基に被爆者が苦しみ、生きてきた全体像を描いている」から、特定の個人の体験を掲載するより「全体像」が分かる作品だと言うのだ。全国で存命の約12万人の被爆者をつなぐ全国組織を率いる木戸氏の言葉を、市教委は重く受け止めるべきだ。

 私は、広島市教委のとってつけたような理由を文字通り受け取れない。これは12―13年に一部の右派が松江市や高知市などに対し展開した、「はだしのゲン」を図書館から排除する運動をはじめとする、中沢啓治氏の作品自体に対する攻撃の流れの中で捉える必要があると思う。原爆の悲惨さを伝える作品は多数あるのにどうして「ゲン」がターゲットにされるのか。それは「ゲン」が原爆だけではなく、大日本帝国の戦争の本質を突く作品であるからである。

 「ゲン」について右派の主張は「天皇陛下に対する屈辱、国歌に対しての間違った解釈、ありもしない日本軍の蛮行が掲載されている」という内容だった。原爆被害についてではない。「ゲン」が原爆文学の中で突出しているのは、大勢に異を唱え戦争に反対して投獄・拷問される父親、その結果「非国民」としてあらゆる暴力と嫌がらせを受ける家族、志願兵になった兄が目撃する皇軍の残忍性、朝鮮人差別や中国人への蛮行、天皇の戦争責任を厳しく問い、「君が代」を拒否する…など、日本の戦争の「実相」についての余すところのない描写である。だから右派に標的にされるのだ。

 それに対し、左派・「平和」主義者たちは論点をそらし、原爆の恐ろしさを伝える作品や、「知る権利」への攻撃であるとの反論ばかりに見える。ここに、中沢作品の本質を捉えているのは左派よりも右派であるという皮肉がある。12年末に中沢氏が亡くなって以降、死人に口なしとでも言わんばかりに氏の作品を排除しようとしてきた勢力に立ち向かうには、まずは「ゲン」が訴えるタブー破りの本質議論に向き合わなければいけない。

 私は11年8月、広島を訪れた日米の学生向けに講演した中沢氏の通訳を務めた。中沢氏は、戦争を起こす者の責任を問い、戦争からもうける「死の商人」を許すなというメッセージを強調していた。中沢氏は若い世代に「バトンタッチ」したいと何度も言っていた。私もその「バトンタッチ」の一端を担いたい。

 (「アジア太平洋ジャーナル・ジャパンフォーカス」エディター)