自己決定権の歴史 阿部藹 <託されたバトン 再考・沖縄の自己決定権>3


この記事を書いた人 Avatar photo 仲井間 郁江
当時の仲井真弘多知事(右端)に最終提言を手渡す沖縄道州制懇話会の仲地博座長ら=2009年9月、県庁

 前回は、2015年に翁長雄志沖縄県知事(当時)が国連人権理事会で口頭声明を発表するまでの経緯を振り返り、「沖縄の自己決定権」という言葉が声明文の第1稿から含まれていたことを述べた。

 実際にその口頭声明で翁長氏が「自己決定権」という言葉を用いたことを受けて、元知事の仲井真弘多氏や自民党県議たちは「自己決定権は先住民族固有のものである」という不正確な認識に基づいて、「沖縄県民が先住民族だと誤解を与えた」などと激しく翁長氏を批判した。しかし、「自己決定権」は実は沖縄県内のさまざまな立場の人たちがさまざまな文脈の中で言及してきた言葉である。

 例えば、2000年代初期に県内で盛んになった“道州制”の議論の中では、高度な自治権とほぼ同義に扱われていた。沖縄経済同友会が提起し、設立した沖縄道州制懇話会は、09年に当時県知事だった仲井真氏に手交した提言書で「沖縄の住民には主権に対する最終的な自己決定権があり」、歴史的・地理的特性を鑑みて大きな権限を有するとして特例型沖縄単独州の設立を求めている。この会のメンバーだった自民党の國場幸之助氏は、その後の選挙演説で「県民の民意や尊厳、自己決定権を求める心なくして、日本の発展はあり得ない」とも述べたという(注)。

 また、沖縄の革新政治家として長年国会で活躍した、照屋寛徳氏が繰り返した「ウチナーの未来はウチナーンチュが決める」というスローガンに代表されるように、沖縄に関する政策の意思決定は沖縄の民意に基づいたものでなければならない、という概念としても用いられてきた。

 繰り返し示してきた「沖縄の民意」が日本によって無効化されてきた歴史を背景に、沖縄のありようを決める力を自分たちの手に取り戻したい、という強い思いが「自己決定権」という言葉に込められ、政治的、社会的議論の中でしばしば言及されてきたのだ。

 一方で、翁長氏が言及した「自己決定権」という言葉は、国連の場で発せられたことによって国内の政治的・社会的議論における概念ではなく「国際法上の権利」として受け止められ、だからこそ大きな意味を持つものになったのではないか、と筆者は考える。であるがゆえに玉城デニー知事が目指している国連訪問が実現した場合には、その意味を損なうことがないようにしなければならない、と思う。

 それでは国際法上の「自己決定権」とはどのような権利なのだろうか? その歴史は20世紀初頭に遡(さかのぼ)る。思想的起源としてよく挙げられるのは、1917年に全ロシア・ソビエト大会でウラジーミル・レーニンが提案し採択された「平和への布告」と、翌18年に米大統領のウッドロー・ウィルソンが発表した「14カ条の平和原則」である。

 レーニンの「平和への布告」は第一次世界大戦の停戦提案だったが、そこで呼びかけられたのは「他国の土地を略奪することも他の諸国民を強制的に統合することもない」、無併合と無賠償を原則とする諸民族の自己決定(一般的には民族自決と訳される)に基づいた戦争の終結であった。つまり、あらゆる民族や国家が他民族や他国からの抑圧を受けることなく、「分離独立」を通じて自分たちの政治的運命を決定する、というものである。これに対抗してウィルソンが発表した平和原則の中の民族自決・自己決定は非常に限定的で、実際には人々が自由に、民主的に自らの政府を選ぶ「自治」とほぼ同義であったと指摘されている。

 第二次世界大戦後に発効した国連憲章で「自己決定(民族自決)」は初めて国際条約に姿を表す。第1条2項に、国際連合の目的の一つとして「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること」が挙げられているのだ。この憲章の採択は、民族自決・自己決定という政治的原則が国際法における行動基準にまで成熟したことを示すものではあったが、その内容は定義されておらず、自己決定が実際のところ何を意味するのかは明確にされてはいなかった。

 しかし、植民地支配に苦しんでいた人々が次々と独立を勝ち取り国連加盟国が飛躍的に増加していく中で、アジア・アフリカの新しい独立国家が議論を牽引(けんいん)するようになり、第1条2項は憲章起草者たちの当初の意図から離れ、「植民地の人民が独立を得る権利」の根拠になっていく。国連の外でもこの潮流は加速していき、55年にインドネシア・バンドンで開催されたアジア・アフリカ会議に集まった指導者たちは、さまざまな政治的背景を有しながらも人種差別や植民地主義に抗(あらが)っていくという点で一致する。そして、バンドン宣言を採択し、「あらゆる形態の植民地主義は、速やかに終結させるべき悪である」として植民地主義を非難、その上で自己決定の原則を人種差別や植民地主義に対する闘いと結びつけたのである。

 これらの流れを受けて、60年に国連総会決議1514(XV)、通称「植民地独立付与宣言」が賛成89票と反対0票、棄権9票によって採択され、「植民地の人民が独立を得る権利」としての自己決定権が成文化された。しかし国際法上の「自己決定権」はそこで留(とど)まることなく、その後さらなる発展を遂げ、想定される権利の主体が多様になっていく―。

注:琉球/沖縄の「自己決定権」について―なぜ提起されなぜ潰されようとするのか―島袋純 立命館法学2021年5・6号(399・400号)参照

(琉球大学客員研究員)
(第4金曜掲載)