【寄稿】与那国と東アジアの交流 山田和幸 緩やかに束ねる心で 小規模の手仕事を中心に


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山田和幸

 東京から最も遠い国内の有人島は与那国、距離2100キロ。与那国から最も近い有人島は、その距離わずか110キロ、東京の2倍の人口をもつ台湾だ。昔も今も大国どうしの思惑に翻弄(ほんろう)される台湾と与那国。それでも人々は、生業(なりわい)や芸能を通して深く関わってきた。

 今年は、台湾・花蓮市と与那国町が姉妹都市宣言をして41年。子どもたちはホームステイを通して、2010年から中学生が、翌年からは小学生も交流学習を続けている。その与那国に、アジアとの関係だけでなく、島民の間にも対立と分断を持ち込む自衛隊基地が7年前に開設された。基地は、島民の暮らしを守るためにあるのだろうか。島民が知り得ぬところで次々に進む昨秋からの急変は、基地誘致に“同意”した島民の間にも深い動揺を与えている。

全島民“避難”

「まるんな」と刻まれた石碑=与那国町

 島の暮らしに自衛隊と米軍が前面に現れてきた。小さな島の中では、その光景から逃れることはできない。機動戦闘車が走る日米共同演習、子たちを動員したミサイル避難訓練、ミサイル新基地計画、生物多様性の高い湿地帯を根こそぎ崩す港湾計画、防衛大臣命令による迎撃ミサイル配備、自衛隊の空港・港湾利用常態化。戦争を想定した車輌(しゃりょう)や戦闘服の日常は、育ちゆく子たちの心にどう刻まれるのか。高校がない、医療も厳しい、物価も高い、そんな島からまだ出て行かないのかと追い立てられているかのようだ。

 今年になり、「有事前の島外避難」が普通の会話に出てくる。昨年、町議会は9月定例会で島外避難のための基金条例を可決、町長は資金援助を国に求めた。今年4月には、全島民を一日で島外避難させる計画を発表した。

 与那国島と同じ北緯24度にあってほぼ同規模の硫黄島は、熾烈(しれつ)な戦闘が起きる前の1944年春から半年をかけ、100名ほどの徴用男子を除いた全島民が“一時避難”した。78年たった今も帰島が許されない。日米の軍事基地となったままだ。(石原俊著『硫黄島』を参照)

自立ビジョン

 それでも島で暮らし続けたいと願う人たちが、互いの仕事を知り合い、課題解決を模索し始めている。決して楽ではないが、島の自然資源に着目し、そこに豊かさを見出しているのではないだろうか。与那国には島を出ていく中学生も参加し、ボトムアップで練り上げた『2005 与那国・自立へのビジョン』がある。自立、自治、共生の考え方を基本に、アジアとの交流による島づくりだ。全町民大会で採択され、町議会全会一致で確定した計画だ。新たな智恵と技術を肉付けすることができる。

「まるんな」

 島の南側に比川(ひがわ)という集落がある。コミュニティの中核を担う小学校、その正門脇に「まるんな」と刻む大きな石碑がある。小さな島で暮らし続けるには、アジアや日本から黒潮や季節風に乗ってやって来たすべての人が必要だ。人々の束ね方が「まるんな」である。実ったイネを一本のワラでサッと束ね、次の作業に移るときは簡単に解く、決して固くきつく縛らないという農作業から生まれた考え方だ。国が島に持ち込む「抑止力」は、不信と排除に基づく。違いを当然として緩やかに束ねる「まるんな」の心とは相容れない。

地の利生かして

 琉球列島の軍備強化は“意図しない戦争”によって再び捨て石にされる危険を高めている。アジアの人々から見れば、意図に反して加害者にさせられることでもある。1975年のベトナム戦争終結後、東アジアでは大きな戦争は回避されており、ASEANを中心とした対話と外交が大きな流れになっている。日本の発信力は弱く、沖縄の自治体外交の出番ではないか。

 これまでも与那国は台湾との経済交流を試みてきた。継続しなかった一つの背景は、経済規模の面で台湾と与那国とのアンバランスにあると思う。農業作物や工芸品を含め、小規模の手仕事を中心とした経済交流、生業交流が適しているように思う。『自立ビジョン』の考え方を土台に“まるんな”の心で、与那国島民による生業交流が担える役割は小さくないと信じている。

(おきなわ住民自治研究所会員、与那国町在住)