原爆の悲惨さ学ぶ 被爆者が越来小で講話 気を失い、トラックから見た光景とは 沖縄


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被爆体験について話した雛世志子さん(右から2人目)に質問する越来小の児童=5月23日、沖縄市

 【沖縄】6月23日の慰霊の日を前に、沖縄市立越来小学校は校内で「原爆と戦争展」を開いている。オープニングセレモニーが5月23日に開かれ、6年生約55人が広島で被爆した雛世志子さん(91)=うるま市=の講話を聞いた。講話後、児童は雛さんと一緒に展示を見て回った。

 展示は、火葬場になった学校校舎の写真や、娘を助けようとする母を描いた絵、被爆者の声を集めた詩集など、原爆の悲惨さを伝えるさまざまな資料が並べられた。太平洋戦争や沖縄戦のコーナーも設けた。

 雛さんは奄美大島出身の父と徳島出身の母の元で1931年に大阪で生まれた。7歳のころに広島県船越町(現・広島市安芸区)に移り住み、国民学校卒業後は鉄砲などを作る町工場で働いていた。被爆したのは12歳の時だった。

 原爆が投下された45年8月6日。その日は朝から空襲警報が鳴っていた。警報解除後に工場に行くと「防空壕に入りなさい」と大人から言われた。リュックサックを取ろうとした瞬間、ピカッと光り、ドンと音がした。雛さんはその場に倒れ、しばらく気を失った。

 目が覚めると、周囲は爆弾を「ピカドン」と呼び騒いでいた。雛さんは工場長の一人息子を探すため、大人たちとトラックで広島の爆心地近くに向かう。そこかしこに熱線で皮膚が焼けただれた人がふらふらと歩いていた。

 船越町で毎日負傷者を看護した。嫌でも命じられれば受け入れるしかない時代だったという。皮膚下にいるうじをピンセットで除去していった。「子どもの顔を見ると、もう悲しくてね。泣きながら看病した」。重傷者は死ぬのを待つほかなかったという。

 父は48年4月に放射線の影響とされる白血病で亡くなった。50年に姉とともに沖縄に来た。雛さんは「広島みたいになってほしくない」と語った。

 講話を聞いた高島優明さん(11)は「今から考えると想像もつかない。大変だと思った」と振り返った。
 (古川峻)