チョークを持たせたかった 宮良英加さんの無念<おきなわ巡考記>


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子

 摩文仁の平和の礎。百基を超える刻銘碑のうち石垣島出身の戦没者が並ぶ石碑に、宮良英加さんの名が見える。沖縄戦で、宮良さんは「この手でチョークを握って、子どもたちを教えたかった」という言葉を残して亡くなった。沖縄師範学校男子部の本科2年生だった。戦闘で負傷した右手を切り落とされた。その人の無念に思いを致す。

 天皇のために死ぬことが「赤子(せきし)たる臣民」の美徳とされた時代に、宮良さんは迎合しない。上級生の下級生に対する鉄拳制裁を止めるよう提案するなど、自由の精神を身につけていた。「命どぅ宝」の心も秘めていた。海軍を志願した幼なじみの友に「命を大切に」と声をかけたこともある。

 師範の同学年生だった大田昌秀さんの著作「沖縄のこころ」に、宮良さんについての記述がある。1945年1月初旬ごろ、空襲の米軍機が撃墜され、首里近くにパラシュート降下した米兵が捕虜になった。日本軍は首里城構内の園比屋武御獄近くの大木に縛りつけた。その時の情景描写である。

 「英語好きの何人かの生徒が、秘かに(米兵と)話し合ったり、水を飲ましたりしたことがばれ、『利敵行為』をしたとして、衛兵に殴られ、目も開かぬほど顔をはらして帰ってきた」

 その生徒の一人が宮良さんだった。どんな内容の会話だったのか。宮良さんとは別に、「戦争はどちらが勝つと思うか」と外国語に堪能な一中(現・首里高校)の生徒が問いかけたという証言が残されている。極めてまれなことだが、宮良さんら強権に抑え込まれない気構えを持った少年がいたということだ。

 戦況悪化で学徒への徴兵猶予措置は廃止され、師範男子部からも19歳になった宮良さんを含む75人が兵役に就いた(18歳以下は鉄血勤皇隊に配属)。入隊前に、同郷の師範女子部の生徒たちが那覇市内で壮行会を開いた。師範校長、野田貞雄さん(沖縄戦で戦没)の提案である。

 席上、宮良さんは次のようにあいさつした。ひめゆり学徒隊に動員され、生還した宮良(旧姓・守下)ルリさんが著作「私のひめゆり戦記」で、その言葉を書き留めている。

 「一度は生徒を教えてみたかった。勉学の途中で入隊しなければならないというのは残念でたまらない。しかし、いったん戦場に出たからには、生きのびて帰れるとは思えない」

 「戦争は非情だ。勉強したくてもできない。戦争のない時代に生まれたかったということを、後々の人に伝えてほしい」

 運命は不幸にも、その予感通りになる。戦場で重傷を負い、南風原の陸軍病院に運ばれた。右手を切断しなければならなくなったとき、軍医に聞いた。「手は再生できないのでありますか」。この手でチョークを握りたかった。教壇に立ちたかった。しかし、陸上競技短距離の学校代表選手でもあった頑強な身体に、傷口からばい菌が入り、命尽きた。

 戦争がなければ、どんな教師になっていたであろう。そんな想像を広げ、夢と志を断ち切る戦争につながるすべてに今、屈してはならないと強く思う。自分ごととして「6・23」に、そう誓う。

(元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)