慰霊の日 「共通の苦しみ」存在 自己決定権考える土台に 阿部藹 <託されたバトン 再考・沖縄の自己決定権>5


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「平和の礎」に刻まれた名前を見て語りかける男性=2022年6月23日、糸満市の平和祈念公園(大城直也撮影)

 沖縄戦から78年の「慰霊の日」を迎えた。

 数年前、「慰霊の日」の摩文仁を訪れた。朝から大勢の方が子や孫と、あるいは一人で「平和の礎」に飲み物や花を供え、祈りを捧(ささ)げていた。その様子を見ながら、私は形容し難い身の置きどころのなさを感じていた。

 その後、自己決定権を研究する中で参照した「コソボ独立宣言の国際法上の合法性事件」に関する国際司法裁判所のカンサード・トリンダージ判事(ブラジル)の個別意見が、その時の「身の置きどころのなさ」の理由を知るきっかけとなった。

 トリンダージ判事は、国際人権法上の「人民」とはどのような人たちなのかを考えるにあたり、明確な定義はないとした上で、コソボの人々は歴史的、法的、文化的、言語的な独自性に加え、「共通の苦しみ(Common sufferingの筆者訳)」を有しており、その「共通の苦しみ」が強いアイデンティティーを生んでいると指摘していた。

 「共通の苦しみ」―この言葉は沖縄の歴史的、文化的、言語的独自性に加え、沖縄(琉球)の人々が共有しているもの、そして沖縄の人々と日本“本土”の人々を分けるものを的確に言い表しているように思う。

 慰霊の日に、沖縄の人々が家族や親戚、友人や隣人の名が刻まれた礎の前で、あるいはそれぞれの場所で、自分に繋(つな)がる沖縄戦で犠牲になった人々に祈りを捧げることは、トリンダージ判事のいう「共通の苦しみ」が確かに存在し、それを癒やそうとする営みのように思える。

 その大切な営みを、まさに「共通の苦しみ」を押し付けてきた側の“部外者”が漫然と眺めていることの欺瞞(ぎまん)性から逃げ出したくなるような気持ちが、「身の置きどころのなさ」の正体だった。

 しかし、“本土”出身者には決して分かち合えない「共通の苦しみ」があることは、沖縄の人々がどのような法的主体として自己決定権を有するかを考えるにあたり、大切な土台になると思う。これについては、今後改めて詳しく議論する。

 前回、筆者は1972年に“返還”されるまでの琉球・沖縄は、外的な自己決定権を有する「非自治地域」に類する地域だったと考えられること、一方でサンフランシスコ平和条約によって、日本の潜在主権と米国の施政権(統治権)という二重構造の下に置かれることになり、特に日本が潜在主権を有していたことが植民地独立付与宣言に基づく沖縄の人々の主張を妨げていたことを述べた。

 ここで鍵となるのが植民地独立付与宣言の翌日に国連総会で採択された「総会決議1541」である。この文書を詳細に読めば、米統治下にあった琉球・沖縄については「米国を宗主国とする非自治地域」と解釈されることが適当であり、外的な自己決定権、つまり独立する権利としての自己決定権をも有していたという結論を導き出せるのだ。

 総会決議1541は非自治地域について、(1)「施政国から地理的に分離し、人種的および(あるいは)文化的に異なっている地域」であり、(2)「宗主国と当該地域との間の行政、政治、司法、経済または歴史的関係」が恣意的に当該地域を「従属的地位または状態」に置く場合に該当すると定めている。

 (1)が基準としているのは「潜在主権を有する国」ではなく「施政国」であり、当時の沖縄について言えば行政、立法および司法上の権力、つまり排他的施政権を有していた米国がこれに該当する。

 また、サンフランシスコ平和条約では、米国は琉球・沖縄を国連の信託統治下に置くまで施政権を有すると定めていたが、現実には信託統治へ移行することなく恣意的に従属的地位に置き、その人民に対してあらゆる権力を行使し続けた。これは(2)に当てはまる。

 実は、琉球・沖縄が外的な自己決定権を持つ可能性があったことには、当時の日本政府も懸念を抱いていた。1961年の「国会答弁資料(試案)」において、沖縄は植民地独立付与宣言にいう「非自治地域」ではないかと問われた場合の回答案として、総会決議1541の定義を引用した上で「沖縄は、現在米国の施政下におかれ、形式的には上記の定義に該当する地域であるとの議論もなし得よう」と記していたのだ。

 その後、潜在主権の存在や、米国と話し合いによって解決を図っていることから非自治地域として同宣言の履行を求めることは適当でない、と述べているが、あくまでも否定しているのは履行であり、定義への該当を否定していないことは注目に値する。

 さらに、米国もまた沖縄統治が植民地支配にあたることを認識しており、真栄城拓也氏の研究によれば、2・1決議(注)を発端に国際的な批判、例えばソ連主導で国連の「脱植地化委員会」が沖縄への調査団派遣を提案するような事態を警戒していたことが明らかになっている。(真栄城拓也「仲吉良光の日本復帰運動の再考―『復帰男』が沖縄返還に果たした役割とは何だったのか」)

 一方で、非自治地域(に準じる地域)としての自己決定権が“沖縄返還”まで存在していたとしても、総会決議1541によれば(1)独立国となる、(2)既存の独立国との連合を形成する、または(3)既存の独立国に統合する、のいずれかの場合には自治を確立したとみなされる。琉球・沖縄は一見すると(3)に該当するとみられ、返還前に自己決定権を有していたとしても返還で行使し、今は主張できないという見方もあるだろう。

 しかし、“沖縄返還”の過程を国際人権法に照らして捉えれば、別の解釈が可能になると筆者は考えている。次回はその点について議論したい。

 注…米統治下の沖縄で立法院が1962年2月1日に可決した「施政権返還に関する要請決議」
 (琉球大学客員研究員)
 (第4金曜掲載)