血の海の教室、机一つで分かれた生死 宮森小米軍機墜落きょうで64年 当時の6年生が閉ざした記憶を語る


この記事を書いた人 琉球新報社
ジェット機墜落当時、石川さん、仲程さんの2人がいた校舎。2階に激突した=1959年6月30日

 1959年6月30日に、嘉手納基地所属の米軍ジェット機が現在のうるま市石川松島区に墜落した事故から64年がたった。衝撃で跳ね上がった機体は宮森小学校に激突し、児童12人(うち1人は後遺症)を含む18人が亡くなる大惨事となった。石川和子さん(75)=恩納村=と仲程サネ子さん(76)=うるま市=は当時宮森小6年生。仲程さんは事故を語り継ぐ活動をする団体から声をかけられ、今回初めて体験を証言した。石川さんもこれまで当時の様子を詳しく語ることはなかった。2人は「当時のことを伝えないといけない」と話し、二度と悲劇を繰り返さないためにつらい記憶を呼び起こし、自らの体験を語り始めた。

 ■教室にジェット機が衝突、2階から飛び降りて逃げる

傷を見せながら「見るたびに悔しい」と話す石川和子さん=20日、うるま市の松島区公民館

 石川さんは6年3組。ジェット機が激突した教室だ。2校時が終わり、脱脂粉乳を溶かしたミルク給食の時間だった。激突の衝撃で机の下にずり落ちた。外へ逃げようと机や椅子をかき分けると、床一面が血の海になっていた。

 石川さんの席は、亡くなった3人の一列後ろだった。数センチずれていたら自分も命を落としていたかもしれない。「今考えるとぞっとする」

 教室は校舎の2階だった。外階段の途中にはたくさんの火の粉が降り注いでいたため、手すりを乗り越え2階から飛び降りた。その時に両腕を骨折するも「気が付かなかった」と話すほどパニック状態だった。逃げていたところを米軍に保護され病院に搬送された。

 仲程さんは6年1組だった。教室はジェット機が激突した6年3組の隣。事故が起きた時はお手玉をして遊んでいた。「大きい音が聞こえた。すぐ廊下に出た。火のついた木片がビュンビュン飛んでいた」と話す。

 大けがをした同級生の姿を見たのを最後に、あまりの衝撃からか、当時の記憶が抜け落ちているという。

 ■無残な少女の姿に途切れた記憶 「心は当時のまま」 

事故の惨劇を語る仲程サチ子さん=20日、うるま市の松島区公民館

 64年前の事故で、2人は同じ6年生の伊波正行さん、久高明美さん、照屋菊江さんを失った。

 亡くなった3人は石川さんと同じ6年3組だった。一列前の座席だった久高さん、照屋さんとは休み時間にお手玉やおはじきをして遊んでいた。「2人とも身長が少し高く、優しくてかわいい子だった」と思い出す。伊波さんとは家が近所だった。よくままごとをして遊んだ。伊波さんは決まって石川さんの夫役。「遊んでいた人が亡くなった。ショックだった」と沈んだ表情をみせる。

 仲程さんは事故が起きた時はお手玉をして遊んでいた。衝突で、すぐに廊下に出た。火のついた木片が飛び交う中、3年生の妹と1年生の弟を探して中庭に出た。その時、同級生の少女を目撃した。「両腕の肉が(はがれ)落ちていた。そこから記憶がない」と事故の惨劇を語った。

 きょうだいは全員無事だったが「事故の話は全くしない。思い出せないし、口が開かない」。知人との会話で事故の話題が出ても、聞き流していた。だが衝撃は消えず「心は事故当時そのままだ」と語る。

 ■記憶を次代へ「風化させないためにできることを」

事故直後の写真を見ながら他の体験者と共に当時の状況を話す石川和子さん(左端)と仲程サネ子さん(右から二人目)=20日、うるま市の松島区公民館

 仲程さんはジェット機事故を語り継ぐ活動をするNPO法人石川・宮森630会に「当時の状況を教えてほしい」と声をかけられたことをきっかけに、当時の写真や資料を見た。64年を経て、初めて事故の全体像を知り「当時のことを伝えないといけない」との思いを抱いた。断り続けた証言の依頼を引き受け、自らの体験を話した。

 宮森小の上空は今も米軍機が飛ぶ。「爆音には恐怖を覚える。当時を思い出す」と、当時の事故と今を重ねる。「爆音の飛行機がない状況ならいい、と常に思う」とも語った。

 傷や苦しみを抱えながらも石川さんは「繰り返さないでほしい。風化させないためにできることをしたい」と前を向く。仲程さんも「少しずつでも体験を伝えていく」と次世代に記憶をつなぐ決意をした。

(金盛文香)

 

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