「全て国体護持のためだった」沖縄でゲリラ戦に駆り出された少年たちの足跡をたどる 記憶継承プロジェクト


この記事を書いた人 琉球新報社
護郷隊の犠牲者の名前が刻まれた慰霊碑で、戦後も幼なじみの戦友の殺害を強いられた人の苦しみを語る川満彰さん=8日、名護市

 「沖縄戦の記憶継承プロジェクト―戦争をしない/させないために」(同プロジェクト実行委員会主催)の第7回講座のフィールドワークが8日、名護市と恩納村で開かれた。沖縄国際大非常勤講師の川満彰さん(63)が、本島北部の少年兵らが護郷隊で命を捨てる思想を強いられた実態や背景を説明した。約40人が参加した。

 北部地域の10代の少年ら約千人は遊撃(ゲリラ)部隊に動員された。川満さんは元少年兵の証言として、数十キロの行軍の過酷さに泣きながら歩いた話や、1日10~20回も互いに殴り合いをさせられる中、死をいとわなくなった心情を紹介。軍の狙いが「死ぬこと、殺すことを恐れない少年兵の育成」だったとした。

 名護小学校にある「少年護郷隊之碑」の背面に刻まれた「赤き心で断じてなせば 骨も砕けよ肉また散れよ 君に捧げてほほえむ男児」という隊歌を紹介。碑は護郷隊の村上治夫元隊長が戦後建立した。川満さんはこの隊歌が、村上氏らの出身校でスパイ養成機関として知られる陸軍中野学校の校歌と同じだと言い、「全ては国体護持(天皇制維持)のためだった」と指摘した。

 戦後も体験者の間に皇国史観が残っていたことに触れ「戦争は人災だ。責任が誰にあるのか非体験者が考える以外にない」と語り、戦争を体験していない世代が教訓を軸に語り継いでいくべきだと強調した。

 田井等民間収容地区跡地では、当時の地図や写真と見比べながら歩いて場所を確認。大勢の人々がマラリアなどで亡くなる状況から「民間人が収容地区にいた時期も戦後ではなく、戦争中だったと言える」と指摘した。 このほか護郷隊が戦時中に爆破した恩納村の「赤橋」や、沖縄本島南部や周辺の島々が見渡せることから拠点にした多野岳などを巡った。
 (中村万里子)