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腎臓移植・中 久米島へ何ができるか<佐藤優のウチナー評論>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
佐藤優氏

 6月27日に行った腎臓移植後の経緯は良好で、血液中の菌も抗生剤によって除去されたので本日15日昼前に退院する。全身麻酔中、筆者は意識が断絶(ブラックアウト)せずに別の世界を旅した。過去のほとんど全ての出来事が目の前に現れた。そのうち、沖縄に関連する部分で興味深い事柄を紹介する。

 前回、両親と妹で、筆者が育った団地のそばにある見沼代用水東縁(埼玉県さいたま市)を散歩していた話をした。母は小学校1年生の筆者に、「ママが育った久米島の西銘にも、見沼用水よりは少し狭い小川がある。久米島は水が豊かな島で、見渡す限り水田が広がっていた。ここ(見沼)と一緒だよ。ただ違うのは西銘には大きなガジュマルの樹があることだ。ママはよくガジュマルの木に登って遊んだ」という話をする。

 母によれば、このガジュマルにはキジムナーの家族が住んでいる。夜中にキジムナーが母の胸の上に乗ってくると、金縛りのようになり動けなくなる。ただキジムナーは怖い妖怪ではなく、いたずら好きなだけだと母は言う。「優君も私の子だから、沖縄に行けば、キジムナーを感じる」と母が言うのを聞いて、父が「いいよな。お前たちは。キジムナーを感じて。パパも沖縄にいたことがあるけれど、キジムナーを感じたことは一度もない」と言った。

 また、母の自慢は、遠縁の浜川家に「馬の角」があることだ。琉球王から下賜されたものという。母は「馬の角」を見るのが楽しみだったという。それから昔、一晩で中国に行って陶磁器を手に入れてくる謎の美しい娘がいるという。

 こういう母の話から、筆者の内面世界に久米島の西銘周辺の風景、久米島の昔話が焼き付けられた。母が79歳の生涯のうち、久米島に住んでいたのは12歳までの時期だ。にもかかわらず、母のアイデンティティーは常に久米島にあった。筆者は腎臓移植で延びた命を使って久米島のために何ができるかを考えている。

 小学校4年生(1969年)6月のある日だ。筆者は自家中毒症による熱と吐き気で学校を休んだ。雨の日だった。母は沖縄戦で捕虜になったときの話をする。14歳の母は、陸軍第62師団(「石部隊」)の軍属として沖縄戦に加わった。摩文仁のガマに17人で隠れていた。トイレや炊事で外に出た際に米兵に見つかったときは自決するか、別の場所に行くと約束していた。しかし、ある日本兵が米兵に見つかったにもかかわらず、ガマに戻ってきてしまった。

 米軍の通訳兵が「デテキナサイ」と言う。横で若い米兵が自動小銃を持っているが、全身が震えている。母は自決用に渡されていた二つの手榴弾のうちの一つをズボンのポケットから取り出し、安全ピンを抜いた。信管をガマの壁にたたきつければ3~5秒で爆発する。一瞬、母の手が止まった。1秒よりは長いが2秒はなかったという。そのとき母の隣にいた、北海道出身でアヤメという名の「山部隊」(陸軍第24師団)に所属する、ひげがぼうぼうに伸びた伍長が「死ぬのは捕虜になってからもできる」と言って手を上げた。

 そして母は生き残った。この話は本コラムにも書いた。今回、鮮明に浮かび上がってきた記憶は、母が突然号泣したことだ。「アヤメ伍長がいなければ、お母さんがあのガマにいた16人を殺していた。お母さんは人殺しになるところだった」と息も絶え絶えに叫んでいた。母の目は据わっていた。その姿を見て筆者は怖くなった。あのときアヤメ伍長が手を上げていなければ、あのガマにいた17人は母が爆発させた手榴弾によって全滅し、筆者が生まれてくることもなかった。筆者の手元には沖縄戦に関する母のインタビュー記録がある。これをまとめて本にしたい。

  (この項、続く)

(作家・元外務省主任分析官)