沖縄バスケの礎 古川峻(中部報道グループ)<ゆんたくあっちゃ~>


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written by 古川峻(中部報道グループ)

 沖縄バスケットボール史を振り返る連載「バスケ王国の系譜」で、県バスケ協会初代会長の故・小橋川寛氏を紹介した。資料の多くは紙面に載らなかったが、頭から離れないエピソードもある。「沖縄の人には帰る所が無かった」。終戦直後、赴任先の朝鮮で小橋川氏が立たされた境遇を現した言葉だ。

 小橋川氏は1927年から終戦まで、朝鮮半島で体育教師をしていた。引き揚げ時のことは、長男でカナダ・ウィンザー大名誉教授の慧(あきら)氏(90)が「海外引揚者が語り継ぐ労苦」に記している。マラリアを発症したり、機雷が残る海を密航船で渡ったり、一家は幾多の困難を経て福岡県に着港した。「少しでも沖縄の近くに行こう」と鹿児島県へ向かう。鹿児島では旅館の女将に「乞食(こじき)を泊める所ではない」と突き返され、駅前を寝床にした時もあった。

 小橋川氏が向かったのは米軍が占領する沖縄だ。「沖縄に帰った最初の5、6年は鹿児島にとどまるべきだった、と父は後悔したらしい。それでも父は、理由も言わずに沖縄へ帰ると言い出した」と慧氏はつづる。取材には「沖縄に関しては、日本政府は無力だという感じでした」と振り返った。

 帰郷後、県バスケ協会の創設などに奔走し、沖縄バスケの礎を築いた小橋川氏。沖縄のバスケ熱の高さの基底には層の厚い歴史が存在する。

(沖縄市担当)


ゆんたくあっちゃー 県内各地を駆け回る地方記者。取材を通して日々感じることや裏話などを紹介する。