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体験者へ聞き取り15年 風化させず「記録集」を発刊 犠牲者の刻銘へ今も活動<惨劇の記憶 伊江島LCT爆発から75年>下


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自身がビデオで記録した体験者の聞き取りの様子を見る長嶺福信さん=7月25日、浦添市

 伊江村出身の長嶺福信さん(75)は、1948年8月6日に伊江村の大口(うぷぐち)浜連絡船桟橋で起きた米軍の爆弾輸送船(LCT)爆発事件の体験者の聞き取りを約15年、続けている。これまで話を聞いた人は50人を超え、聞き取りの様子を撮影したDVDは約30枚に上る。聞き取りを続ける背景には「体験者の話を聞くことで、少しでも気持ちを安らげることができれば」という思いがある。

 長嶺さんもまた、生後1カ月半のころに爆発事件を体験している。事故当時、LCTが爆発した大口浜から数十メートル離れた見張り台の下で、ハンモックに寝かされていた。爆風で飛んで来た砂をかぶった程度で、けがはなかった。高校進学を機に島を離れたが、それまで家族から事故の話を聞く機会はあまりなかったという。

 本島の企業に勤めた長嶺さんは2008年に定年を迎え、故郷のことを知ろうと同年に県公文書館で公開された米軍がまとめた爆発事件の報告書を調べ始めた。

 報告書では、黒人兵がLCTに積載された爆弾の山に上った際に荷崩れを起こし、その後、爆発したと記されていた。それまで「トラックがLCTに突っ込んで爆発した」と聞いていた長嶺さんは、「ちゃんとした事実を残さなければ」と思ったという。

 18年ごろからは、体験者の聞き取りを本格的に始めた。最初は多くが「思い出したくない」と口を閉ざした。つらい記憶をよみがえらせたくないと慰霊碑の刻銘を望まない遺族もいた。それでも、何度も体験者の元を訪ね歩いた。

 ある体験者は事故の話を切り出すと絶句し、別の体験者は事故の写真を見せると当時の記憶を鮮明に語り出した。友人を亡くした村本千代さんは、聞き取りの後「話したら心が少し穏やかになったよ」と話した。その言葉に「話を聞くことで少しでも気持ちが安らぐなら」と思い、今も聞き取りに取り組んでいる。

 事件を風化させず伝えようと、長嶺さんが事務局長を務める「伊江島米軍LCT爆発事件8・6の会」は21年8月、記録集「伊江島の記録と記憶 伊江島米軍爆弾輸送船LCT爆発事件」を発刊した。

 現在、LCT爆発事件で命を落とした戦争孤児の外間モウシさんの刻銘に向け、活動している。「戦争で家族を亡くし、彼女の死を誰も知らない。彼女がいた証しを残してあげたい」と刻銘に懸ける思いを話した。

(金城大樹)