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対馬丸事件、記録や遺品でも継承 急逝した平良啓子さんの体験、娘・次子さん語る


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亡くなった平良啓子さんの写真の前で「母が語ってきたことの意味は何だったか考え続けないといけない」と話す平良次子さん=12日、那覇市若狭の対馬丸記念館

 「沖縄戦の記憶継承プロジェクト―戦争をしない/させないために」(同プロジェクト実行委員会主催)の第9回講座が12日、那覇市若狭の対馬丸記念館で開かれた。講話を予定していた対馬丸事件の生存者で語り部の平良啓子さんが7月29日に88歳で急逝したため、娘の次子さん(61)と対馬丸記念会代表理事の高良政勝さん(83)が講話を行った。約40人の参加者は黙とうし、事件を語り伝えてきた体験者の思いに耳を傾けた。次子さんと高良さんは、個人の記録や遺品を通して記憶をつなぐ大切さも訴えた。

 対馬丸事件は1944年8月21日に対馬丸が疎開者を乗せ長崎に向かう途中、翌22日に米潜水艦の魚雷で撃沈されたもので、犠牲者は1484人(氏名判明分のみ)に上る。当時9歳の啓子さんは6日間漂流し救助されたものの、兄といとこ、祖母を亡くした。

 戦後、啓子さんが語る様子をそばで見続けてきた次子さんは、大人に食料を分けてもらえなかった恨めしさなど、当時の子どもの感情を率直な言葉で伝えていたことを振り返った。

最近見つかった幼い高良さんと兄、姉が写った写真を見せて説明する高良政勝さん=12日、那覇市若狭の対馬丸記念館

 啓子さんは平和運動にも尽力した。憲法9条を守る会の活動について、亡くなる直前まで仲間と話すなど普通に過ごしていたという。講話では、対馬丸が攻撃を受けた時に海面に砂が盛り上がってきたことなど新しい話もする予定だった。次子さんは「母が頑張ってきた意味は何だったのか、私たちが考えていかないといけない」と前を向いた。

 高良さんは事件当時4歳5カ月。12日の講話では、2晩3日漂流した時のわずかな記憶を語った。「波が目や鼻に入って痛かった。顔を拭こうとすると沈みそうになるので波の痛さに耐えるしかなかった」。背中は背骨が見えるほど魚に食いちぎられていた。両親ときょうだい7人を亡くした。

 高良さんが当時の状況を知ったのは事件から約60年後。鹿児島の獣医学校に在学中だった兄の政弘さんが、祖父母への手紙につづっていた。手紙のコピーを見つけ、それまで一人でいかだにつかまっていたと思っていたが、父親の政一さんに救助されるまで抱かれていたことが分かった。父は船員に高良さんを渡した後、いかだと父をつないでいた縄が切れて沈んだと記されていた。

 手紙の原本を探し続けていた高良さん。約1カ月前に那覇市牧志の実家で見つかったといい、「父に生かされている。父がいなかったら今の私はいない」と目を潤ませた。同時に見つかった幼い高良さんと兄と姉の3人が写った写真を「大切にしていきたい」と語った。
 (中村万里子)