川崎・米軍機墜落から54年 「辺りは全部火の海」


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 【うるま】1961年12月7日、米空軍嘉手納基地を飛び立った米軍ジェット機が具志川村川崎(現・うるま市川崎)に墜落した事故から、7日で54年になる。死者2人、負傷者6人、家屋や畜舎が焼ける被害を出した事故。地域の人たちは長年、事故を語らなかったが、昨年、証言集「具志川・川崎ジェット機墜落から50年『記憶と記録』平和への願いを込めて」が完成した。

 事故で家が焼けたうるま市川崎の宮城幸一さん(86)、信子さん(86)夫妻は4日、事故の体験を証言した。「もう50年も過ぎたのに。いまさら」と口にしつつ、事故の被害や米軍との賠償交渉の様子を話した。

隣家に墜落
 事故のあった日、信子さんは畑で農作業をして帰宅し、昼食のために台所に立っていた。「突然、音がしてびっくりした。外に出ると辺りが全部火の海。2人の息子と隣の子どもを連れて逃げた。足もガクガクして立てなかった」と、膝に置いた手を何度も握りしめながら思い起こした。
 2人が死亡した隣の家は「真っ黒で、煙しか見えなかった」と話す。信子さんは逃げた場所から家が燃えていくのを見ていた。
 米軍のキャンプ瑞慶覧内のメスホールで働いていた幸一さんは犠牲者名を聞き、スクーターで家へ急いだ。「隣に落ちたんだと思い、気持ちが焦って、進むのも遅く感じられた」と思い起こす。
 近くまで来ると警察に止められたが、「自分の家だ」と話し、規制されている内側に入った。「もう焼け跡も片付けられていた」。様変わりした光景が脳裏に焼き付いている。
 焼けてしまった家は当時築10年ほど。もと住んでいた敷地は戦後、キャンプ・マクトリアス用地として接収され、その後借地に家を建てた。当時かやぶきやトタン屋根が多い中で、川崎では3番目の瓦ぶきの家だった。

賠償交渉も難航
 家族は事故後、川崎小学校の運動場に建てられたテントなどを転々とし、やがて米軍との賠償金の交渉が始まった。
 「米軍にとって瓦ぶきの家は他に比べて高く付いたんだろう。『焼けた背広の(請求の)値段が高い』などと言い、補償を下げようとしてきた」と幸一さんは振り返る。
 賠償の交渉では当初は米軍側が将校2人と通訳を付けて交渉に来ていたが、通訳は米軍側の言い分ばかりしか訳さないため、幸一さんらも通訳を付けて民主団体の人たちと一緒に挑んだ。
 結局、米軍側は「これ以上の交渉は米本国に行ってからしかできない」と言ってきた。幸一さんらはやむなく交渉を終えたという。
 現在、家族が住む家は、事故で焼けた家があった場所に建て直したものだ。「もう50年もたったのに」と複雑な表情を見せながらも「今も上空を(戦闘機が)飛ぶ。1日に何十回か分からない」と、事故当時と変わらない現状を憂いた。